約1ヶ月前の6月4日土曜日、友人O夫妻の次男Kの結婚式があった。その披露宴に私も招かれ出席した。O夫妻は共に私の高校の同級生で、披露宴には他の同級生も呼ばれ、数日ぶりの1人、1ヶ月ぶりの4人、半年ぶりの2人、3~4年ぶりの2人、6~7年ぶりの1人、私を加え11人の同級生が1つのテーブルに集った。楽しかった。
新郎の父Oが中心メンバーでもあったことから出席した同級生の多くは養老会(高校時代に発足し続いている飲み会、養老乃滝でよく飲んでいたからその名)のメンバーであった。40年以上の付き合いがある気の置けない面々だ。数年間ご無沙汰となっている養老会を復活しようという話も決まる。これからも付き合う仲間、楽しい集いだった。
そうやって我々オジサンオバサンは勝手に自分たちの話で盛り上がっていたが、その日の主題、Kの結婚披露宴も賑やかであった。私の同級生たちが結婚ラッシュだった頃、その披露宴での余興には、おばさまたちが眉をしかめるような、今ならセクハラで訴えられかねない下品な余興もあったが、今時の余興は我々の頃よりずっと上品になっていた。新郎の友人達によるエイサーは上手で、新郎新婦を紹介するビデオも上出来であった。
でも、その日最も私の目を引いた余興は友人O夫妻の孫Yの空手演舞、空手については素人の私だが、彼女の演舞はすごく上手であった。未来のチャンピオンだと思った。
友人達とのユンタク(おしゃべり)が楽しくて、Y嬢の演舞をしかとは見ていない。私の席の正面の壁にスクリーンがあって、そこに映し出される映像が目の片隅にちらちら見えていた。そのちらちらが何回かあって「おっ!」と思って舞台の生の姿を見たが、それから数秒後に演舞は終わってしまった。したがって、写真も撮れなかった。
空手については素人の私だが、「彼女の演舞はすごく上手」と評価した訳は、止まっている時の姿が安定していると感じたからだ。私が「おっ!」と思ったのもそれ。
空手については素人の私なので、ちょっと調べてみた。『沖縄大百科事典』に記載がある。さすが沖縄伝統の空手だけあって説明文も小さな文字で4ページ半に及んでいる。
空手の発生についてはいつ頃、誰が、どこでなど定説がないようである。中国拳法の影響があり、中国との交易時代に発生したであろうとのこと。現在、剛柔流、小林(しょうりん)流など流派はいくつもあるが、まとめて空手として世界的に発展している。
私の母方の叔父が小林流の師範であり、父方の伯母の夫(故人)が少林寺流の開祖であった。私は武道にあまり関心が無いので、残念ながら、両方から空手に関する何の話も聞いていない。母方の叔父はまだ存命なので、今度話を聞きに行こうと思う。
武道に関心の無い私であったが、テニスをやっていて膝を痛め、その回復のために若い頃の3年ほど太極拳を習っていた。武術の方ではなく演舞の方。師匠は美人の中国人、彼女は武術、演舞両方とも一流で、中国本国の大会で優勝歴もあるほど。師匠と弟子たちの間には言うまでもなく大きな開きがあった。美人師匠は見た目が美しいだけではなく、身体しなやかで、蹴り上げる脚は180度に開き、動きは素早く、時に緩やかに流れ、何よりも腰が安定していた。止まる時にはどんな形であれピタッと止まる。
もちろん、Y嬢の演舞が美人師匠に匹敵すると言っているわけではない。ただ、まだ子供なのに姿勢が安定していることに感心した。安定した姿勢があるから素早い動きができるのではないかと、空手については素人の私だが思うのであった。Y嬢の安定した姿勢はおそらく、下半身の筋肉が強いからではないかと思う。何しろ彼女の母親も叔父さん2人も筋肉質、父親はバレーボールの選手だった。何より、Y嬢の祖父母(私の同級生のO夫妻)は恐るべき筋肉質肉体の持ち主、両者とも若い頃に空手を習っていた。
記:2016.6.22 ガジ丸 →沖縄の生活目次
今週月曜日(23日)、従姉のK子に誘われて糸満市摩文仁へ出かけた。6月23日は慰霊の日、69年前のその日、沖縄戦における組織的戦闘が終了した日。その日、摩文仁の丘にある平和記念公園で沖縄全戦没者追悼式があり、それに参加した。
倭国に住んでいる親戚友人たちが沖縄に来た時など、彼らを案内して私は摩文仁(マブニと読む)へ何度も行っている。が、沖縄全戦没者追悼式には初参加。一度は行ってみたいと思っていたので、その日は晴れて畑日和だったのに、畑を放って出かけた。県内外からたくさんの人が訪れていた。私も沖縄戦を改めて考える良い機会となった。
平和記念公園に最初に行った年月日はいつだったか覚えていないが、ずっと若い頃だ、公園が開園(1978年)して間もない頃だったと思う。既に私は運転免許を取得しており、ドライブがてらだったと思う。一緒に行った人はよく覚えている。当時、デート相手だったM女、「何で掴まえておかなかったんだ」と今でも後悔している唯一の女。
初めて彼女と行った日、平和資料館を覗いて、そこの壁に飾られていたピエロらしきものを描いた油絵に魅入ったことを、彼女の顔と共によく覚えている。今の平和資料館は当時のものとは違っている。だいぶ大きく、立派な建物になっている。今回は資料館へ入らなかったが、何年か前に入った時、ピエロらしきものを描いた油絵を探したが無かった。良い絵だと私は感じたのだが、一般的には評価されなかったのかもしれない。
最初に行った時かどうかは覚えていないが、・・・いや、今調べた。ずっと後になってからだ。平和記念公園には平和の礎(イシジと読む)なる構造物がある。沖縄戦で亡くなった人たちの名前を刻んだ墓碑銘だ。建てられたのは1995年というので、公園の開園から17年後のこと。私はおそらく、建てられて間もない頃に見に行っている。敵も味方も全てが戦争の犠牲者であるという平和の礎の理念に感動したことを覚えている。
平和の礎には戦争の犠牲となった沖縄人はもちろん、全国各地から来て沖縄戦で死んだ日本の兵隊も、日本軍の一員として強制的に連れてこられ死んでいった韓国人も北朝鮮人も台湾人も、そして、敵として戦ったアメリカ人やイギリス人たちの戦没者も、その名前が刻まれていて、全てが戦争の犠牲者として慰霊されている。
糸満市摩文仁近辺は沖縄戦の最後の激戦地であった。近くには有名なひめゆりの塔があり、学徒兵を慰霊する健児の塔がある。摩文仁は多くの沖縄の民間人が自決した場所でもある。そして、沖縄にいる日本軍の最高司令官牛島中将が自決した場所であり、その自決によって沖縄戦の組織的戦闘が終わったとされている。ということで、平和を希求する沖縄人の心を示すため、ここに平和記念資料館を置き、辺りを公園にしたのであろう。
敗走して、海端まで追いつめられて、多くの人が「もはやこれまで」と摩文仁の崖から海に飛び降り自殺したらしい。生前の父から聞いた話、私の祖父も家族を連れて南風原の家から爆撃の中を逃れて摩文仁へ辿り着いた。妻(後妻で、血縁としてはK子の祖母)、息子(私の父)、娘たち(私の伯母たち)と崖から飛び降りることにしたらしいが、その直前になって「帯を忘れた、武士たるもの帯を締めずに屍を晒すのは恥」と祖父が言い、帯を取りに家に戻ったらしい。その途中で捕虜となり、命拾いしたという話だ。
6月23日、一緒に摩文仁へ行った従姉のK子、彼女の姪にあたるS女の2人を沖縄全戦没者追悼式が行われていた会場近くに残して、私は公園内の散策に出た。「沖縄全戦没者追悼式があり、それに参加した」と上述したが、式典そのものには、私は参加していない。多くの来場者同様、戦没者を追悼する心は持っていたが、かつて酷い目にあった沖縄に新たな基地を建設しようとする日本国総理大臣や、それを許した沖縄県知事の挨拶など聞きたくなかったので場を離れた。ただ、平和の礎には手を合わせた。
摩文仁の丘には多くの都道府県の慰霊の塔も建てられている。会場を離れ、丘に登ってその数ヶ所を見ながらのんびり歩いた。覗いた塔の前には全て献花があった。一つの塔では、数人が弁当を食べていた。「他府県からも参加者が多くいるんだな」と判った。
空は晴れて強い日が差していた。日向を歩くと暑かった。でも、風が優しく吹いていたので木陰に入ると涼しかった。歩いて汗をかきつつ、木陰でひと休みしつつしながら、岸壁の崖っぷち(といっても、柵があったので危険では無い)に立った。
崖の上から太平洋を眺めた。海はきれいだった。波は穏やかだった。「ここから飛び降りるのか」と思って下方を見た。「飛べないこともないな」と思った。「生きていることが死ぬより辛くなったら、5回転5回ひねり位しながら飛んでやるか」とも思った。そして、「生きていることが死ぬより辛くなる」ことが起こらないよう祈った。
記:2014.6.24 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
私の畑なっぴばるの向かいは森になっていて、道路沿いに墓があり、2ヶ所に登り道があって、その道を登っていくとその奥(道路から30mほど)にも墓がある。よって、シーミー(清明祭)の頃になると、毎週末、墓参りの人々がやってくる。
その頃のことだから今(6月8日)から1ヶ月半ほど前のこと、道沿いの墓の一つの傍にあった大きな枯れ木(たぶんリュウキュウマツ)が倒れた。そして、その枯れ木から20mほど離れたもう一つの墓の傍にあった枯れ木(たぶんアカギ)が5月下旬(たぶん25日頃)に倒れた。それら2本の枯れ木にはサシバやミサゴやカラスなどがよく停まっていたので、私のバードウォッチングの良いポイントであった。残念である。
今週日曜日(6月8日)、前夜の天気予報では「未明まで雨、日中は曇り」だったので 畑へ行った。向かう道の途中から小雨が降り出し、畑へ着いても小雨は止まなかった。止むのを待つか帰るか悩んで一服していると、向かいの墓の手前に1台の車が停まり、雨の中、男性が1人降りて墓へ入った。この辺りは立ちション所なので、「墓の中で小便かよ、罰当りな奴」と早合点してしまったが、違っていた。5月下旬に倒れた(たぶんアカギの)大木はその墓に横倒しになっていて、男性はそれを眺めていた。
それから数分もしないうちに大きなユンボ(バックホウ)がやってきて、墓の前で停まった。運転手が降りてきて、私の畑に入って、 畑の奥にある小屋に向かって歩いてきた。用件は察しがついていた。その日私は、ひょっとしたらすぐに帰るかもしれないと、車を駐車場に入れず路駐していた。おそらく、私の車が作業の邪魔になるのだ。
私はすぐに立って、彼を見た。彼も私を見て、そして、大声で言った。
「ウヒグヮー、車メェーンカイ、ユシティトゥラサンガヤー」と。ウチナーグチ(沖縄口=沖縄語)だ。「ちょっと、車を前に、寄せてくれないか」という意味。
私は手を挙げて、肯いて、「分かっている よ」と合図し、戸締りをして、傘を差して車に向かった。荷物を車に入れて、そして、ユンボの運転手に訊いた。
「倒れた木を片付けに来たの?」と、彼は肯いて、
「いつ倒れたのかなぁ、知らなかったなぁ。」
「2週間ほど前だったよ。」などと少し会話した。
この時、彼は標準語。相手が標準語の場合は、そうするみたいである。私がウチナーグチで話したら彼もそうしたに違いない。ウチナーグチ、話そうと思えば何とかできないことは無いと思うが、間違いなく話せるという自信は無い。残念に思う。
数ヶ月前、近所の大先輩農夫89歳N爺様と、爺様の畑の前の道端で話をしていると、中年(といっても、私よりひと周りは年下)の男性が声を掛けてきた。現場関係らしい服装の人。数ヶ月も前のことなのでどう言ったかは正確に覚えていないが、
「ハイサイ クヌアタインカイ オナガグシク ヌ アンシチチョビーシガ・・・」と道を尋ねた。相手が年長者のN爺様なので丁寧なウチナーグチだった。「こんにちは、この辺りに 翁長城 が あると聞いていますが・・・」といった意味。
N爺様はもちろん、ウチナーグチで応対し、彼と数分の会話があった。私より若い人が流暢なウチナーグチで爺様と話しているのを聞いて、羨ましく思った。
N爺様は、私と話す時は標準語だが、私の畑の北隣のSさん、南隣のTさん、斜向かい(N爺様の南隣)のNさんたちと話をする時は互いにウチナーグチのことが多い。
言い訳するが、私の世代は「方言を使ってはいけない」と教育されていたし、私は那覇で育っており、那覇は沖縄の都会であり、都会の子供たちは日常会話でウチナーグチをほとんど使っていなかった。ウチナーグチは不良の言語だった。
Sさんは私より少し上、Nさんは半周り上、Tさんはひと周り上の人、そして都会の育ちではない。ということで、彼らがウチナーグチを普通に話せてもおかしくない。だけれども、私より1世代下と思われる翁長城への道を尋ねた男性がウチナーグチを流暢に話している。そういえば、ユンボの運転手も私よりひと周りは年下のようであった。その年代の人でも声を掛ける時、先ずはウチナーグチなのだ。ウチナーグチが普通なのだ。
「田舎なんだな、西原は」と思った。彼らは子供の頃からウチナーグチが日常にあったのだ。あるいは、「自分たちの言葉に誇りを持ち、大事にしなさい」と教育する偉い人が周りにいたのかもしれない。そんな人が私の周りにいなかったことを残念に思う。
永い歴史を持つ言語、先祖から代々受け継いできた言語、それは、そこに生まれ育った人の拠り所となるものと言って良いと思う。大地のようなものだ。「大地が貧しければ作物も貧しく育つ」ことを、まだ見習いとはいえ農夫の私は知っている。「よしっ!」と改めて思った。「いつか、近所の人たちとウチナーグチで会話してやる」と。
記:2014.6.9 ガジ丸 →沖縄の生活目次
戦跡として有名な糸満市にある『ひめゆりの塔』は、看護補助要員として動員された女学生で戦死、または自決した方々を慰霊するものだと聞いている。「ひめゆり」は彼女達がひめゆり学徒と呼ばれたからとも聞いていた。しかし、今回調べて分かったことだが、それは彼女達を偲んで、あるいは称えて、戦後つけられた名前とのことであった。
ひめゆり学徒たちが最初に勤労奉仕に従事した場所は南風原陸軍病院だということをおぼろげに記憶していて、そこへ行ってみたいと前から思っていた。で、2007年8月23日のお昼頃、仕事が近くであったこともあり、私は南風原陸軍病院壕跡を訪れた。
辺りを散策したが、壕の入口は見当たらなかった。入口らしき所があって、その横に立てられていた看板の文章を読むと、「現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。」とあり、「南風原文化センター 2002年」と書かれていた。私が訪れた2007年は、まだその準備ができていなかったと想像された。
今年(2013年)6月末、実家にあった戦争遺留品を寄贈するため南風原文化センターを訪ねた。そこは黄金森という名の広い公園の中にあり、建物はまだ新しかった。訊けば2009年にオープンしたとのこと。黄金森公園の中には沖縄陸軍病院南風原壕群跡もあるとのことだったので、寄贈を済ませ、センターを出て壕跡の見学に行った。
「センターのすぐ後ろに飯上げの道という名の坂道があります。それを上っていけば壕跡に行けます。あそこです」とセンターの係りの人がわざわざ外に出て指差してくれた。飯上げの道とは、食事を作ったのはセンターのある辺りにあり、そこから飯を運んだところからきている名のこと。太陽がガンガン照り付ける暑い中、坂道を上った。
入口からすぐ、10mも行かない内に見覚えのある景色があった。「悲風の丘」と看板があり、それで6年前の記憶が蘇った。「ここは1度来ている」と気付いた。「確か、南風原陸軍病院で亡くなった人々を慰霊する塔のあるところだ」と中へ入ると、その通りであった。2007年当時は原野のような中にあった塔であった。
そこから壕跡へ向かう道も整備されていて全く見覚えのない景色が続いた。壕跡の入口も整備されていて案内所となっている建物も建っている。私が2007年8月に見た壕跡の標識が立っていたところはどこなのか全く見当がつかなかった。後日、センターの人に写真(2007年8月の)を見せると、「そこは今の出口辺りに立てられていたものだと思います」とのこと。出口辺りを見ると、そうかもしれない地形であった。
沖縄陸軍病院については、南風原文化センター作成のチラシの説明をそのまま拝借。
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。
6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍空襲によって施設が焼却し、南風原国民学校校舎に移転した。それ以降、第32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。
米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
南風原町は1990(平成2)年戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。
沖縄陸軍病院南風原壕群跡
第二外科群の内、現在、20号壕が整備され公開されている。
見学には予約が必要で以下の決まりごとがある。
・一度に入る人数は10名以内
・全員必ずヘルメットを着用(現場無料貸出)
・懐中電灯を使用(現場無料貸出)
・常駐ガイドが案内する
・見学時間は1グループ20分程度
これらの他、私がガイドから注意されたこととして、
・ガイドの指示に従う
・壁や天井に触れない(土が崩れやすいとのこと)
・天井の低い所があるので頭上に注意する
なお、写真撮影は許されている。私は手にカメラを持ちながら、撮り忘れた。
記:2013.8.14 ガジ丸 →沖縄の生活目次
「強さも大きさも過去最大級の台風、最大瞬間風速は70m。」と予報された台風15号は、今週日曜日の昼前から翌月曜日の昼前まで沖縄島を暴風圏に巻き込んだ。予報された最大瞬間風速70mに畑も大きな被害を受けるだろうと覚悟していたが、最大瞬間風速は40m程度に控えてくれ、オクラが傾き、キクイモが倒れただけで済んだ。
沖縄気象台のデータを確認していないが、今年(2012年)は沖縄に影響を与える台風が例年より多いと思う。「台風の当たり年」となっているみたいだ。15号が沖縄島周辺を襲った直前には台風14号が八重山周辺を、15号が沖縄島を過ぎた後にも14号はUターンして八重山を襲った。この8月は、台風11号も沖縄島に来た。
台風11号は15号ほどの勢力は無く、私の畑の被害も、キャッサバが1本倒れたが、その他はオクラやキクイモが少し傾いただけだった。傾いてもキクイモは根を食すので収穫には無関係、オクラはその後も毎日数本ずつ収穫できている。
さて本題に入る。台風11号が過ぎた8月8日、いつものように4時半に起きて、6時にはなっぴばるに着き、いつものように草刈りをする。「これ以上やると倒れるぜ」と体が悲鳴をあげた頃、太陽がガンガン照りつける午後2時頃まで頑張った。
家に帰って、洗濯して、掃除して、撮り溜めた写真の整理やらガジ丸記事書きなどやっていると、夕方、ラジオから気になるニュースが流れた。
「全国学力テストで沖縄県は全ての教科で最下位」とのこと。「最下位」が気になったのでは無い。私もそうだったが、沖縄の子供達は概ね勉強が嫌いである。嫌いなものはなるべくやりたくない。よって、学力は上がらない。最下位は当然のこと。
「これではいけないので、何とか対策を」という教育関係者たちのコメントが気になった。「学力向上がそれほど大事なことか?」という疑問である。
沖縄の古い諺・・・では無く、まったく私の創作であるが、こんなの考えた。
サンミンやならんてぃんチムやウフッチュ
サンミンとは計算のこと、ならんてぃんは「できなくても」、チムは心、ウフッチュは大人のこと。「計算はできなくても心は大人の力がある」という意になる。大人とは「考え方・態度が老成しているさま。分別のあるさま」(広辞苑)のこと。
大人になるための勉強は、学校で習う国語算数理科社会ばかりでは無い。大人になるためには「生きて行く力を着ける」ことが必要で、そのための勉強は他にいくらもある。生きて行く力の基本にはもちろん、読み書き算盤(そろばん)もある。言葉を知ることは、生きて行くために必要な知識を得ることができる。算盤も因数分解や微分積分などは要らないが、加減乗除はできた方が良い。買い物ができる、生きるにはそれで十分。
万有引力や相対性理論など知らなくても、いつ種蒔き、いつ収穫し、どう料理するかなど知っていれば生きて行ける。もう少し勉強して、台風対策、病害虫対策などもできればなお良い。炎天下で働き続けたら熱中症になる場合がある、風邪を引いたらこの草を煎じて飲めば良い、なんてことも勉強すれば、さらに良いウフッチュとなるはず。
記:2012.8.27 ガジ丸 →沖縄の生活目次