金曜日の職場が、年末から三ヶ月ばかりインターネットが使えなかった。で、その間、友人Hの店で私は、ガジ丸HPのアップ作業をしていた。
アップ作業は、先ず、写真のアップをし、書いた記事の確認後、記事と写真のリンク設定をし、その後、記事をアップする。以上の作業に1時間、長いときは2時間ばかりかかる。たった1、2時間であるが、集中力を要する作業である。他の事をやりながら、例えば、誰かとおしゃべりしながらだと、作業の進み具合が遅くなる。
Hの女房、E子はおしゃべりである。概ねの女はそういうものであると、長年生きているオジサンの私はよーく認識しており、インターネットを使わせてもらっているということもあって、それに対し文句は言えない。でも、煩いと思っている。
何とかしなければならないと思った。Hの店でHPのアップ作業をするようになって3回目くらいの時に閃いた。E子は、寝ている時と美味しいものを食べている時はあまりしゃべらない。そこで、お菓子を持っていくことにした。口封じのお菓子である。
口封じという言葉はしかし、「黙っていて欲しい」という意味にはならない。口封じは口止めということである。私は口止め料として E子にお菓子を与えているわけでは無いのである。「しゃべられては困ることを他にしゃべらないように」(広辞苑)させようとしているわけでは無いのである。ではあるが、E子のパクパク開いている口を強く塞ぎたいという気持ちを込めて、口封じの菓子と命名したわけである。
「自分のいた場所ではそういうことは無かった」と言う一人の証言に、「自分たちの周りでそういうことがあった」と言うたくさんの証言が封じられてしまう。封じようとしているのは国家権力である。その方が国にとって都合が良いのであろうか。
私は、日本軍が住民に自決を強要したということが昔あったからといって、それで日本や日本人が嫌いになるということは無い。戦争で庶民が虫けら扱いされることは、大昔からよくあったことだ。戦争とはそういうものであろう。戦争になると、普通の人でも鬼になってしまうことがある。だから、戦争が起きないようにしましょうね、という教育をしておけば良いのである。戦争が無ければ、日本は良い国なのである。
国の検定教科書は、過去にやった間違いを、「いや、そんなことやっていない」などとするつもりだろうか。それが卑怯な振る舞いであるとは思わないのだろうか。そんな教科書を使って、日本の子供たちを卑怯者に育てる教育をするというのだろうか。
記:2007.4.13 ガジ丸