ヘルムート・バルト

 ヘルムート・バルト氏をご存知の方はどのくらいおられるだろうか。
 バルト氏は1929年(もしくは28年)生まれのドイツ人ピアニストである。1958年当時29歳の彼は、世界的なチェリストであり、かつ作曲家であったガスパール・カサドの来日公演に際して同行・初来日し、いくつかの演奏会でカサドのピアニストを務めている。
 
 そのバルト氏が4月7日、滞在先の千葉県で死去した。死因は心不全、76歳であった。その亡がらはフライブルク音楽大学教授である鶴岡裕子(つるおか・ひろこ)夫人の計らいで自宅のあるドイツ・フライブルクに帰り、そして4月20日に葬儀が行われたようである

 先に「いくつかの演奏会でカサドのピアニストを務めた」と書いたが、バルト氏が弾いていないいくつかのリサイタルでカサドの伴奏をしたのが、後にカサドの妻となる原智恵子であった。
 私はバルト氏の死去を報じるWebのニュース記事で初めて彼の妻が日本人であったこと、1980年代には国立音楽大学において客員教授を務めるなど、日本とは並々ならぬ関係を持っていたことを初めて知った。

 カサドがモーツァルトのホルン協奏曲第3番 Es dur K.v.447 をチェロ協奏曲に編曲した作品をカサド自身が日本において初演した際のピアニストがバルト氏であった(この作品の日本での初演はピアノ伴奏により行われた。オーケストラにによる初演は、独奏チェロ:長谷川陽子、ゲルハルト・ボッセ指揮 神戸市室内合奏団により2000年5月27日、神戸学院大学メモリアルホールで行われている)との情報を得た私は、なんとかバルト氏についての情報がないものかと探していた。そんな折にチェロ奏者、宮澤等氏が室内楽をバルト氏に師事していたこと、その宮澤氏がカサドの「スペイン古典様式によるソナタ」を演奏されることを知り、2002年3月6日に東京銀座の王子ホールの楽屋に宮澤氏を訪ね、バルト氏についてお聞きした。
 
 宮澤氏のお話から、バルト氏がその時点で72歳程であること、そしてドイツで存命であることを知ることが出来たが、それ以上のことはわからないまま3年が経過し、そして今日、彼の死去を伝える記事に出会ったのである。

 彼がどのような経緯でカサドの伴奏者として来日することになったのかはわからない。しかしそれ以後、彼が日本人ピアニストを妻としたびたび来日することになった遠因に、1958年のカサドとの来日、そしておそらくあったであろう原智恵子との出会いがあったのだとすれば、何とも不思議な巡り合せであり、そこには神の意思とでも言うようなものが働いていたのではないかと思えてならない。

 ヘルムート・バルト氏に関する情報はこちらにまとめてありますので興味を持たれた方は是非ご覧ください。

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