唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
TBSが「会津若松城開城問題」の謝罪・訂正を放送
本年2月16日にTBS系で放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発」において、戊辰戦争時の若松城開城(1868年)理由が出題され、「糞尿(ふんにょう)が城内にたまり、その不衛生さから」が正解とされた問題で、会津若松市は、「開城は、援軍の望みが絶たれたことや傷病兵の増加など様々な要因が重なったもの」とし、正解を「糞尿問題」としたことが「会津人の心情を踏みにじる」として謝罪を求める抗議文をTBS側に送付していた。
これに対してTBS側は、番組の担当プロデューサーらに会津若松市役所を訪問させ、「会津若松市の方々の心情に対する配慮を欠いていた」とするおわびの文書を市側に提出していたが市側はこれだけでは納得せず、菅家市長は「(不衛生な)状況はあったとしても、主たる開城理由とするのは事実と違う。バラエティー番組とは言え、しかるべき対応で責任を果たすべきだ」と指摘。「史実を歪めたことへの謝罪はなく、これで終わりにはできない」とし、改めて謝罪、訂正放送を求めていたが、これに対するTBS側の謝罪、訂正が、4月8日午後0時57分からの1分弱で放送される事が、市側より発表された(当初予定より4分繰り下がり)。
140年も前のこと、しかもバラエティー番組中でのことに、会津人は何故ここまでこだわるのか、不思議に思われる方も多いだろうが、考えても見て欲しい。140年も前の事というが、140年前とは今の年寄りの曽祖父の時代のこと。今を生きる世代も、祖父が若いときに年寄りに聞いた話として、戊辰戦争における屈辱と、その後、斗南藩として再興が許されてからの言い尽くせぬ苦労を聞かされているのである。信じられないという人は、是非、会津の街を訪ねてみて欲しい。いまだに戊辰戦争の時の立ち回の刃で削り取られた柱が、鉄砲の弾がめり込んだままになった建物が残されているのだ。会津の人々にとって、戊辰戦争は過去の出来事ではないのである。
ここで重要なことは、「戊辰戦争における『屈辱』」である。何故、会津人にとって戊辰戦争が「屈辱」であったのか。戊辰戦争勃発時、会津藩主松平容保(かたもり)は京都守護職として、時の天皇を守る役目を負うていた。自分は、つまり会津藩は朝廷、天皇を守る側であり、錦の御旗はまさに我が手にあったわけであるが、薩長との戦が続く中で、会津藩がいつしか「朝敵」と呼ばれ、討つべき対象とされるに至ったのである。
誇り高い会津人は、正義が我が方にあったにも関らず、薩長(官軍)により「朝敵」の汚名を着せられたまま140年が経過していることに対しいて、取り分け会津城下に攻め入った長州藩に対して、いまだに許しがたい気持ちを抱いているのである。極、極々簡単に書けば、これが会津人にとっての「屈辱」である。だから、140年前のこと、たかがバラエティー番組でのこととしても看過するわけにはいかないのである。会津の地においてはいまだに戦は終わっていない。会津人こそ、今を生きる侍なのである。
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例によって記事本体とは何の関係もない今日の一枚は、恩田の森唯一の水系、奈良川を流れ行く桜の花片と遊ぶ鯉。