桜と桃を追いかけて(その4)

 昨晩、記憶に残すのと違って、印画紙上に残すのは難しいのだと書いたが、これについて少し補足をしておきたい。

 つまり、こういうことなのである。記憶に残っている風景は、それが好ましいと思った風景であったとするならば、好ましいもの、つまり、見渡す限り咲き誇る桃の花だけが記憶に残され、好ましくないもの、つまり、桃源郷の中に立つ「桃源郷」という看板や、県道を行き交うトラック、頭の上を這う電線は記憶されないのである。記憶という作用の中で、好ましいものと好ましくないものが無意識の内に取捨選択されているからである。

 しかし、電気的にあるいは化学的に記録される映像においては、無意識の内に取捨選択されることなど勿論有り得ず、無粋な看板もトラックも電線もしっかりと記録されるのである。これが人の記憶の中に残る風景と、写真として電気的にあるいは化学的に残る記録との違いなのである。こうして考えると、絵画は「記憶」そのものであることに気づくだろう。自己にとって都合の悪いもの、好ましくないものはなかった事に出来る。看板やトラックは描かなければ良いのだから。

 更に考えると、デジタルカメラによって撮影された写真は、記憶あるいは絵画に似ているということにも気づくだろ。つまり、デジタルカメラによって撮影された桃の花をPhotoshopを使って実際以上に鮮やかに色にすることも出来るし、不必要なもの、つまり看板やトラックや電線を消し去ることも出来るからである。ということは、デジタルカメラとPhotoshopを使うことで、写真家(写真愛好家)は、写真家であるだけではなく、画家にもなることが出来るということか?
 

 散々講釈を垂れたあとは、その割には全然たいしたことのない一枚。素晴らしいのは、昨日に続いて300mm(相当)F2.8開放のボケ味だけ。トホホ。(山梨県笛吹市一宮町にて)
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