唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
「期待」に賞を与えて良いのか
「がんばりま賞」だ。「がんばりましたで賞」ではない。小学校での事ならば大いにあり得るし、もしクラスの全員にその賞を与えた教師がいたのならば、それは素晴らしいことであり、素晴らしい教師であると思う。
スポーツの世界でも芸術の世界でも、科学の世界においても文学の世界においてもしかり。おおよそ「賞」というものは、結果、つまり動かざる実績に対して与えるものである。なのにだ、郷秋<Gauche>の理解では、日本人なら知らぬ人はいない、世界中を見渡しても知らぬ人を探すことの方が難しいだろと思える著名な賞が、「期待」に対して与えられた。
もし将来、受賞者にその期待に沿わぬ言動があったとしたら、その賞は剥奪されるのだろうか。もし剥奪されたとしても、授与されたと云う事実を消し去ることはできないし、もしも剥奪が現実のものとなれば、授与した側の短絡、甘さ、先見のなさが糾弾され、その賞の価値を自ら大いに卑しめることになるだろ。
もう一度云う。賞とは実績に与えられるべきものである。それを今、「期待」に対して与えなければならない理由はただ一つ。期待に違う行動をしないように、強く自制を求めるためである。果たして彼が正義と云う名に託けた狼藉をはたらくことがないか注視し、必要とあらば大いに非難の声を上げようではないか。期待に沿うようにと。
スポーツの世界でも芸術の世界でも、科学の世界においても文学の世界においてもしかり。おおよそ「賞」というものは、結果、つまり動かざる実績に対して与えるものである。なのにだ、郷秋<Gauche>の理解では、日本人なら知らぬ人はいない、世界中を見渡しても知らぬ人を探すことの方が難しいだろと思える著名な賞が、「期待」に対して与えられた。
もし将来、受賞者にその期待に沿わぬ言動があったとしたら、その賞は剥奪されるのだろうか。もし剥奪されたとしても、授与されたと云う事実を消し去ることはできないし、もしも剥奪が現実のものとなれば、授与した側の短絡、甘さ、先見のなさが糾弾され、その賞の価値を自ら大いに卑しめることになるだろ。
もう一度云う。賞とは実績に与えられるべきものである。それを今、「期待」に対して与えなければならない理由はただ一つ。期待に違う行動をしないように、強く自制を求めるためである。果たして彼が正義と云う名に託けた狼藉をはたらくことがないか注視し、必要とあらば大いに非難の声を上げようではないか。期待に沿うようにと。
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読書習慣。あれっ、読書週間?いや、読書月間。
読書の秋であるが、この頃、すっかり読まなくなってしまった郷秋<Gauche>である。これではいかん、人の書いたものを読んで、人の考えを知り、知識を広め、感受性を豊かにせねば、いかん。読書を趣味と云えるのかどうかと云う議論は置くとして、本を読むのが好きか嫌いかと聞かれれば、まぁ、結構好きな部類に入る郷秋<Gauche>であったが、このところトンと読んでいない。読む時間がないのである。なぜなら、書いているから。こうして書いているから。
当然の話だが、書くと云う作業は読むよりも相当時間がかかる。自分が思っていることを勝手に書き付けるだけならそれ程でもないけれど、間違ったことを書かないようにと思うと、調べながら書くとなると、相当に時間がかかる。それに、郷秋<Gauche>はタイプするのが遅い。遅いだけではなくてミスタイプも多いから読み直して間違いを直すのにもまたかなりの時間がかかる。云うほど大そうなことではないけれど「推敲」もする。だからますます時間がかかる。
三島由紀夫は推敲をしなかったと聞いたことがあるけれど、本当だろうか。万年筆で原稿用紙に書き付けた彼の原稿にはほとんど加筆訂正、推敲の跡がなかったという。すべては彼の頭の中で最高の状態まで組み上げられ、それを紙に書き付けていくから加筆訂正、推敲の必要がない。それが天才の証なのだと。そう云えば、山中湖にある三島由紀夫文学館で見た原稿には、ほとんど加筆訂正の跡がなかったように記憶している。
まっ、郷秋<Gauche>を三島由紀夫と比較すること自体、実に不遜と云うか、不敬と云うか、甚だ不適切なことではあるけれど、郷秋<Gauche>の場合には、とにかく書くのに時間がかかるのだ。だから書いていると読む時間がなくなるのである。それでも毎日、一定の分量、中身の重軽や良不良、適不適は別にして、とにかく毎日、数百字から数千字の文章を書けるというのは、まっ、特技と云っても良いかも知れないな。と、ちょっと自慢。
話が逸れたが、近頃の郷秋<Gauche>は人の書いたものを読む時間よりも自分が書いている時間の方が圧倒的に長くなっているのは事実。でも人が書いたものを読まないと思考が自分中心的になってくるような気がするんだ。だからこれからしばらくは「読書週間」とする事を決定。ということで読む本をまとめて書店に注文した。それと今年に入ってから買ったはいいけれど読まぬままになっていた本、それと毎月届きながら最近はほとんど目も通していないクルマの雑誌も合わせて積み上げてみたのが今日の一枚。
郷秋<Gauche>はここに、今日から今月末までを読書週間とする事を宣言します。って、今月末までって云ったら、週間じゃなくて月間だよね。トホホ。まっ、いずれにしてもここに積み上げた本を今月末までに読んでもみようと思っている郷秋<Gauche>なのであります。もっとも写真集2冊、月刊・季刊の雑誌を含んでこの分量だから楽勝かな?
と云う訳で、今日の一枚は郷秋<Gauche>が今月末までに読む予定の本。こんな本を読んでいるのかとお嗤いください。なお、恥ずかし過ぎてとても見せられない本、約一冊はタイトルが見えないようにしてありますです(^^;。
当然の話だが、書くと云う作業は読むよりも相当時間がかかる。自分が思っていることを勝手に書き付けるだけならそれ程でもないけれど、間違ったことを書かないようにと思うと、調べながら書くとなると、相当に時間がかかる。それに、郷秋<Gauche>はタイプするのが遅い。遅いだけではなくてミスタイプも多いから読み直して間違いを直すのにもまたかなりの時間がかかる。云うほど大そうなことではないけれど「推敲」もする。だからますます時間がかかる。
三島由紀夫は推敲をしなかったと聞いたことがあるけれど、本当だろうか。万年筆で原稿用紙に書き付けた彼の原稿にはほとんど加筆訂正、推敲の跡がなかったという。すべては彼の頭の中で最高の状態まで組み上げられ、それを紙に書き付けていくから加筆訂正、推敲の必要がない。それが天才の証なのだと。そう云えば、山中湖にある三島由紀夫文学館で見た原稿には、ほとんど加筆訂正の跡がなかったように記憶している。
まっ、郷秋<Gauche>を三島由紀夫と比較すること自体、実に不遜と云うか、不敬と云うか、甚だ不適切なことではあるけれど、郷秋<Gauche>の場合には、とにかく書くのに時間がかかるのだ。だから書いていると読む時間がなくなるのである。それでも毎日、一定の分量、中身の重軽や良不良、適不適は別にして、とにかく毎日、数百字から数千字の文章を書けるというのは、まっ、特技と云っても良いかも知れないな。と、ちょっと自慢。
話が逸れたが、近頃の郷秋<Gauche>は人の書いたものを読む時間よりも自分が書いている時間の方が圧倒的に長くなっているのは事実。でも人が書いたものを読まないと思考が自分中心的になってくるような気がするんだ。だからこれからしばらくは「読書週間」とする事を決定。ということで読む本をまとめて書店に注文した。それと今年に入ってから買ったはいいけれど読まぬままになっていた本、それと毎月届きながら最近はほとんど目も通していないクルマの雑誌も合わせて積み上げてみたのが今日の一枚。
郷秋<Gauche>はここに、今日から今月末までを読書週間とする事を宣言します。って、今月末までって云ったら、週間じゃなくて月間だよね。トホホ。まっ、いずれにしてもここに積み上げた本を今月末までに読んでもみようと思っている郷秋<Gauche>なのであります。もっとも写真集2冊、月刊・季刊の雑誌を含んでこの分量だから楽勝かな?
と云う訳で、今日の一枚は郷秋<Gauche>が今月末までに読む予定の本。こんな本を読んでいるのかとお嗤いください。なお、恥ずかし過ぎてとても見せられない本、約一冊はタイトルが見えないようにしてありますです(^^;。
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