玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』(2)

2015年02月23日 | ゴシック論
私は基本的にあらすじについては書かない。インターネットで調べればいくらでも書かれている。無駄なことはしたくない。
『アドリエンヌ・ムジュラ』はどう読んでも“幻想小説”とは言えない。むしろ、フランス伝統の“心理小説”に近い。ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』に始まり、ラクロの『危険な関係』、コンスタン『アドルフ』、スタンダール『赤と黒』とつながり、レイモン・ラディゲの『ドルジュル伯の舞踏会』で完成されたと言われる“心理小説”である。
 心理小説はフランス独自に発生し、発展してきた小説形態で、その特徴は極めて会話文が少なく、その代わりに登場人物の会話や仕種、行動についての分析的記述が延々と続くところにあり、したがって描写は人物描写、風景描写を含めてほとんどない。
『アドリエンヌ・ムジュラ』もそうした特徴を持っている。もうひとつ心理小説の特徴は登場人物同士の会話における“腹のさぐり合い”に重点が置かれるところにある。そのために登場人物はいかにも酷薄な記述によってその心理が裸形にされ、小説は百鬼夜行の観を呈する。
 日本では夏目漱石の『明暗』が心理小説の最初の作品だと言える。『明暗』もまた“百鬼夜行”の作品と言われた。『明暗』では登場人物同士が厳しく対峙し、心理的な戦闘が展開されるが、『アドリエンヌ・ムジュラ』もそれに近い。
 登場人物は少なく、父アントワーヌ・ムジュラ、長女ジェルメーヌ・ムジュラ、次女で主人公のアドリエンヌ・ムジュラと隣家のうさんくさい夫人レオンティーヌ・ルグラ、アドリエンヌが愛するモールクール医師とその姉マリー・モールクールの6人でしかない。アドリエンヌを中心に一対一の心理的争闘が描かれていく。
 アドリエンヌの父親殺しとモールクールへの片思い、恋の破綻によるアドリエンヌの発狂のドラマは極めて酷薄で、心理小説として完璧とも言える。心理小説はフランスに於いてラディゲで終わったわけではなかったというのが最初の読後感であった。

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ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』(1)

2015年02月23日 | ゴシック論
東雅夫編『幻想文学講義――「幻想文学」インタビュー集成』という大冊がある。その中で出口裕弘が「フランス幻想文学10選」を選んでいる。ラインアップは以下のとおり。

1.ロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)『マルドロールの歌』
2.シャルル・ボードレール『パリの憂鬱』
3.ヴィリエ・ド・リラダン『トリビュラ・ボノメ』
4.ペトリュス・ボレル『シャンパヴェール悖徳物語』
5.マルセル・シュオッブ『少年十字軍』
6.ジュール・シュペルヴィエル『沖の小娘』
7.ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』
8.ミシェル・レリス『オーロラ』
9.ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』
10. アンドレ・ブルトン『ナジャ』

 これまで63年も生きてきたせいか、10作品のうち読んでいないのは5.7.8の3作品のみである。第1位に『マルドロールの歌』を選んでいる出口の選択に私は強い共感をおぼえる。『マルドロールの歌』こそは私の歪んだ青春の書であり、いじけた中年の書であり、これからも倒錯した老年の書であり続けるだろう作品だからである。
 ジュリアン・グリーンは他の作品を読んで強い感銘を受け、人文書院版の全集、第1期、第2期合わせて13巻を所持しているが、なぜかほとんど読まずに35年もの間放置してきた。
 カトリックの作家である。フランスは無神論とカトリックの国。ボードレールもそうだし、私の好きなバルベー・ドールヴィイもそうだ。ボレルは違ったかな? ところで『アドリエンヌ・ムジュラ』が気になったので、ゴシック周辺の小説として読むことにした。
「ジュリアン・グリーン全集」第1期第7巻(人文書院、1979)新庄嘉章訳。
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