玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(4)

2015年02月27日 | ゴシック論
 分析的記述が会話文の10倍以上はある。ジェイムズが今日読まれなくなっている理由がよく分かる。フランスの心理小説に慣れていない人にとってはこうした分析的記述は読んでいて苦痛以外のものではないだろう。
 しかし、私は老眼を乗り越え、8ポ2段組をものともせず、夢中になって読むことが出来た。決して哲学的なわけでもない。必ずしも難解でさえない。ジェイムズは人間のドラマをその行動においてではなく、その心理に於いて描こうとしたのに過ぎない。
 そのような作品があってもいいのだし、そうした小説は登場人物の行動のスリルを描くのではなく、心理のスリルをこそ描こうとする。登場人物たちが会話を交わすたびに彼らの心理のスリルが的確に捉えられていく。そのような小説を堪能することもまた可能なことなのである。
 小説のクライマックスもまた、行動においてではなく、心理において実現されていく。これはやはり特殊な小説なのだと言わなければならない。哲学的などとは言えないと私は思う。哲学的であるが故に難解なのではなく、登場人物の心理とその変化を執拗なほど微細に描いているからこそ難解と言われるのではないか。だから分析的記述に根気よく付き合っていけばそれほど難解な小説ではない。ただし、大衆的な指示が得られやすい小説でないことは確かである。
 フランス心理小説の主流との違いが一つある。フランスの心理小説のほとんどは純粋な恋愛小説である。『クレーヴの奥方』、『アドルフ』、『ドルジェル伯の舞踏会』も純粋な恋愛小説、『赤と黒』は若干違うが、それとても恋愛の占める比重は大きい。
 しかし、ジェイムズの『鳩の翼』は純粋な恋愛小説とは言えない。そう言って良ければ“恋愛をめぐる陰謀小説”であって、フランスの心理小説に似たものを探すとすれば、ラクロの『危険な関係』が近いかも知れない。二人の恋人が財産を得て結婚するために、大富豪で不治の病に冒された娘を利用するというストーリーなのだから。

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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(3)

2015年02月27日 | ゴシック論
 そろそろ本題に入らなければいけない。ヘンリー・ジェイムズの小説は哲学のような小説で、極めて難解だとよく言われる。しかし、『デイジー・ミラー』などは決して難解ではないし、何回読んでもよく分からないと言われる『ねじの回転』にしたって、読み出したら止まらないおもしろさを持っている。怖いが……。
 『鳩の翼』を読み始めてすぐに気づいた。これはフランス流の心理小説の一種であると。ジェイムズが“心理主義的”と言われるのはそのせいなのだと納得した。
 小説は副主人公ケイト・クロイとその父ライオネル・クロイのやりとりから始まる。これがなかなかくせ者なのだ。2人の会話は相手に自分の言いたいことを理解させようという形では進行しない。そうではなく、お互いになるべく相手に自分の考えていることを隠しながら、相手の考えていることを探り出そうというやりとりとして進行するのだ。
 父と娘の間でもこのありさまで、2人の会話に対してジェイムズは長い分析を加えていく。フランスの心理小説と同じである。小説が進んで行くにつれて会話は極端に少なくなり、分析的文章が圧倒的に多くなっていく。
 こうした特徴は本家フランスの心理小説よりも極端だと言わなければならない。フランスの心理小説でも腹のさぐり合いとそれに対する分析的記述が中心となるのだが、ジェイムズの場合分析的記述の比重が圧倒的に高い。
 人物描写もなければ、ましてや情景描写などほとんどない。ロンドンとヴェニスを舞台としているのに、名所旧跡についての読者受けする記述や描写などまったくないのである。よくこんな小説が映画になったものだと思うが、たぶん監督はジェイムズの意図をまったく理解していなかったのであろう。

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