玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

木村榮一『謎ときガルシア=マルケス』(2)

2017年11月05日 | ラテン・アメリカ文学

 本書はラテン・アメリカ世界の成立から、ガルシア=マルケスの作家への道を辿り、その後は年代順に作品に沿って論じていくという構成となっている。
 それ自体に問題はないのだが、序がいきなり開高健の話から始まること、また第6章旅立ちというガルシア=マルケスが作家となる前段階について述べた章でも、話は開高健から始まり、さらには第8章記憶と創造では司馬遼太郎が取り上げている外村繁の『澪標』のことから始まっていることに、奇異な感じを受ける人は多いだろう。
 かなり変則的な書き方である。第9章『百年の孤独』などは、木村自身の体験談から始まっていて、それが『百年の孤独』のあの信じられないようなエピソードの話につながっていくのである。
 あまり学術的な書き方ではないし、一部必然性が感じられない導入部もあるが、そんな書き方がこの本をずいぶんと分かりやすくしていることは否定できない事実である。ガルシア=マルケスの本質を〝語り〟というところに置くならば、木村もまた〝語り〟を通して、ガルシア=マルケスの本質に近づいていこうという姿勢なのだ。
 たかだか250頁の本であるから、言い尽くせないことがたくさんあるだろうとは想像がつく。ラテン・アメリカ文学を論ずるときに、新大陸の発見からスペインによる征服を経て、独立にいたり、さらには独裁政治を経験していくという歴史を語らずに済ますことはむずかしいが、そこのところが十分展開されているかというと、そうは言えないと思う。
 ガルシア=マルケスの前史については、読者は他の本で勉強すべきなのかも知れない。250頁ばかりの本ではいかんともしがたいということなのだろう。だからこの本には幅広い目配りはあるが、つっこみが足りないという印象が残ってしまう。
〝魔術的リアリズム〟ということについてはどうか。木村は最終章の「《魔術的リアリズム》の作家というよりも」の節で、ガルシア=マルケスの全作品を次のように位置づけている。

「ガルシア=マルケスはカフカ風の短編から、フォークナー、グレアム・グリーン、ヘミングウェイなどの影響がうかがえる作品、さらに『百年の孤独』に代表される《魔術的リアリズム》と呼ばれるようになった作品、あるいは一九世紀リアリズムや歴史小説の技法を生かした長編小説など、作品のテーマに合わせて変幻自在に手法、文体を変えて創作を続けてきた。」

 ラテン・アメリカ文学というと〝魔術的リアリズム〟といわれるものを持ち出してきて終わりというような論調を採っていないことは評価できる。しかし、〝魔術的リアリズム〟がラテン・アメリカ文学の中で、どのように位置づけられるのか、あるいはmagic realismというときの、magicの方に比重があるのか、realismの方に比重があるのか、ということについてもガルシア=マルケスに即して論じて欲しかった。そして、

「ガブリエル・ガルシア=マルケスは〝魔術的リアリズム〟の作家というよりも、むしろ人間への深い愛とその孤独を語りの中で追求し続けている作家といえる。」

というような常識的な議論に終わらせることなく、より深い追求を期待したい。
 ところでガルシア=マルケスが作家として歩み出すときに、カルロス・フエンテスの大きな力添えがあったということが、第7章疾風怒濤に書かれているが、あらためてフエンテスの偉大さに気づくことができた。フエンテスのように作家としても偉大でありながら、プロデューサーとしても有能だった人の存在を、ラテン・アメリカ文学の作家たちだけでなく、我々も十分感謝しなければならない。
 最後にひと言。この本には同じ内容の繰り返しの文章が多すぎる。木村の責任もあるが、それは編集者の責任に置いて対処すべき欠陥である。
(この項おわり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする