玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(2)

2017年11月26日 | 読書ノート

『金色の盃』には訳者青木次生による長大な解説が付されていて、この難解で一筋縄ではいかない小説を、我々がどう読んだらいいかについての一つの解答を与えてくれる。その解答について言う前に、青木が紹介しているアメリカの批評家たちによる議論について触れておかなければならない。
 青木によれば、『金色の盃』解釈の最右翼というのは「アダム・ヴァーヴァーは神のごとき、マギーはキリストのごとき存在であるとするような解釈」であるらしく、「アメリカの無垢がヨーロッパの退廃を救うのだというのは確かに大勢の批評家たちの――ことにアメリカの批評家たちの、お気に入りの発想である」と青木は書いている。
 つまりこの小説の登場人物たちは、道徳的な布置の中で解釈され、ヘンリー・ジェイムズがヨーロッパの退廃に対する、アメリカの無垢というものの勝利を謳い上げているのだと批評家たちは思いたいらしい。
 言うまでもなく、アメリカの無垢を象徴するのが父アダムとその娘マギーであり、ヨーロッパの退廃を象徴するのがイタリア人で、マギーの夫となるアメリーゴ公爵というわけである。アメリーゴと不倫を犯すアダムの妻シャーロットも、アメリカ人ではあれアメリーゴと同罪ということになる。
 しかし青木次生はそのような考え方を真っ向から否定する。『金色の盃』は第一部公爵と第二部公爵夫人に分かれ、第一部はアメリーゴ公爵の、第二部はアメリーゴ公爵夫人の視点から書かれている。だから、第一部でのアメリーゴの不行跡について、第二部で妻のマギーがそのことを察知していき、それによって精神的な不安定に陥りながらも、それを乗り越えて夫を許すに至るというような読み方がされてしまう。
 青木はマギーの道徳的純粋性などというものを、はなから信じることなく、むしろ公爵の方が道徳的には正しいとまで主張するが、それもまた道徳的な読みにすぎず、私は青木の考え方に与することができない。
 ただし青木が徹底してヘンリー・ジェイムズの、いわゆる〝視点〟というものを重視し、『金色の盃』で語られていることが必ずしも事実ではなく、1人の登場人物の視点から解釈された事実にすぎないという青木の主張には賛意を表したいと思う。
 事実というものが普遍的に存在するのではなく、それが個々の人間の解釈の上にしか存在できないとする考え方が、ヘンリー・ジェイムズの小説の基本にあるのだとすれば、読者はアメリーゴの言うこともマギーの言うことも、そのまま鵜呑みにすることはできない。
 ではすべては相対化されているのかといえば、そうも言い切れない部分があり、それは青木がマギーに見ている過剰な想像力という観点から解明されるべき事柄であろう。
 つまり公爵と公爵夫人の視点のどちらが信用できるのかと言えば、多くの批評家が判断するように公爵夫人にではなく、青木が判断する公爵にこそ信が置かれるべきなのだ。
 この小説はアメリカの大富豪アダム・ヴァーヴァーの一人娘マギーが結婚するイタリア人のアメリーゴ公爵には、かつての恋人シャーロットがいて、彼女はマギーの親友であり、マギーの働きかけでシャーロットは父アダムと結婚するという、極めて危険な設定の上に成り立っている。
 そしてアメリーゴとシャーロットの不倫を誘発するのは、必ずしもお互いの配偶者に対する不満ではなくて、アダムとマギー父娘の異常な親密さにこそある。アメリーゴとシャーロットはそのために自らの居場所をなくしてしまうのであって、本当の罪はマギーにこそ帰せられるべきということを読者は知っている。
 第五章の最後にシャーロットがマギーに投げつける二つの言葉は、自らの不行跡に対する居直りなのではなく、これこそ真実の言葉なのでなければならない。

「あなたという人はわたくしたちの結婚を憎み抜いていたのね!」
「あなたという人はずうっとわたくしのじゃまばかりしていたのよ!」

 

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