玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(2)

2017年11月07日 | 読書ノート

 レムはSFが推理小説の場合のように、「単純化された文学を離れて芸術として完全なものへ向かうわけにはいかない」とし、「SFというジャンルは上級審に相当するものがない」と言っている。
 つまり純文学(と言われるもの=芸術性の高い文学)は、推理小説と同じように犯罪をテーマとすることがあるが、「未来や文明に関する考察」(=レム)をテーマとすることは滅多にないし、ましてや宇宙旅行や宇宙人、ロボットなどをテーマとすることがないからである。
 レムはそれがなぜなのかについては書いていないが、私は宇宙旅行や宇宙人、ロボットなどが、「人間の心理学的真実」に関わるものではないからだと思う。あるいは人間の真実は現在の中にしかないので、未来に属するそれらのテーマを純文学は扱うことができないからなのである。
 しかし、近年日本の純文学作家たちがSF的趣向を多用するのはなぜなのか。しかも、2011年の東日本大震災と原発事故以降にそのような傾向が見られるのはなぜなのかということは、レムの議論から離れても考えてみたい現象である。
 単純に言えば、日本の純文学作家たちがSFにすがりついていくのは、東日本大震災以降、未来というものを、と言うよりは現在というものを信じられなくなり、SFのスタイルを借りて黙示録的な世界観を示そうとしているからだと思われる。
 しかし、一見SFは未来というものをテーマにしているように見えるかも知れないが、実はそうではない。SFでさえ本質的に未来というものを抱え込むことはできない。たとえばアメリカSF映画の「スターウォーズ」が未来を描いているように見えたとしても、実は歴史的には過去に属する人間像や戦争像を描いているにすぎない。
我々は過去を所有することはできるが、未来を所有することは決してできない。SF小説のほとんどが、人間にとっての過去を描いているにすぎないのと同じように、SF小説のほとんどもまた未来を描いているように見せかけながら、過去を描いているのにすぎない。
 私は日本の純文学がSF化していくことに対して、肯定的に考えることができない。黙示録的世界ならSF小説の方がはるかにうまく描いてきたのだからだ。核戦争語の世界の崩壊や、人類の滅亡などというテーマを扱わせたら、純文学がSF小説にかなうわけはないのである。
 しかしそれもまた、SF小説の孕んでいる擬制であって、本当の黙示録的世界は現在にこそあるのだということを、SFは知り得ない。自分が扱っているものが未来であると思い込んでいるからである。
 だから純文学はSFに範を仰いではいけない。レムに言わせれば、SFには上級審に相当するものがないのであるから、純文学がいかにSF的結構を導入して、SF小説の上級審たろうとしても、その時純文学はSF以下的な下級審に堕してしまうであろうから。

 レムの議論に戻ろう。SFが上級審をもたないという事実は、SFという世界の閉鎖的性格をもたらす。SFはSFだけで完結した世界の中でのみ自己主張しようとする。レムはアメリカSFをそのような意味で指弾する。レムは言う。

「問題は、アメリカSFが自らの独占的な地位をかさに着て、思想や芸術の頂点に立つ権限があると主張していることだ。」

「アメリカSFの独占的な地位」というのは、世界のSF界の中で圧倒的にアメリカSFの占有率が高いということだろう。早川文庫のリストを見ればそれは一目瞭然であって、イギリスのSFが多少健闘していることはあっても、SFの主流はアメリカSF以外ではないのである。
 そうした現状がアメリカSFの閉鎖的性格をもたらす。その閉鎖性は文学の批評言語に対する完全なる無知として表れていて、レムに言わせれば、それはゲットー化しているのである。レムの言う「ペテン師」というのはゲットー化したアメリカSFのことなのだ。