玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(2)

2015年06月30日 | ゴシック論

 シルビア・コルダイが息子マウリシオの口笛の曲をどのように聴くかということが、ここで重要な問題となる。シルビアは息子の吹く「夜のガスパール」を極めて正確に聴き取っているかにみえる。
「単純なメロディーの曲とはちがうものだった。楽句のあいだにじつにうまく沈黙がはさんであるので、沈黙が音楽そのものとかわらないほど重要なものになっていた。それらがなんとも説明のつかない形で結び合わされて、曲全体に繊細さと荒廃感、それに触知しがたいまでに透明な冷ややかさをもたらしていたが、シルビアはその口笛を聞いていて、背筋にぞっと冷たいものが走るのを感じた」
 むしろ正確に聴き取っているのはシルビアではなく、ホセ・ドノソなのであって、シルビアはただ単に"背筋に冷たいものを感じた"だけなのだろう。シルビアはこの曲をとうてい受け入れることができない。
 ブルジョア的感性の持ち主であるシルビアはこの曲を受け入れることができない。まして我が子がこんな曲を口笛で吹いていることに耐えられない。マウリシオが「あの聞いたこともない音楽を口笛で吹きながら、自分のまわりになんとも奇妙で、統一がとれ、理解しがたく、複雑きわまりない円環を作り出してその中に閉じこもって」いることが許せない。
 ホセ・ドノソはラヴェルの「夜のガスパール」にそのような本質を見ているのであって、子供には決して相応しくなく、むしろ危険な音楽の代表として「夜のガスパール」を選択している。ラヴェルの「夜のガスパール」は極めてゴシック的な本質を持った曲であって、そのような曲を他に想定することは難しいだろう。ラヴェルはベルトランの『夜のガスパール』のゴシック性をこそ際だたせようとして作曲したのであるから。
 だから、「夜のガスパール」の3曲〈オンディーヌ〉〈絞首台〉〈スカルボ〉はそれがいかに難曲であっても、マウリシオの口笛によって忠実に再現されなければならないのだ。
 ところで、3曲ともマウリシオが吹く場面は出てくるが、〈オンディーヌ〉について完全に間違った注がついているので指摘しておかなければならない。木村榮一は〈オンディ-ヌ〉に「H・W・ヘンツェ作曲のバレエ曲」などという割注をつけているが、完全な間違いである。言うまでもなくラヴェルの「夜のガスパール」の1曲としての〈オンディーヌ〉でなければならない。2曲目の〈絞首台〉については、マウリシオがそれを吹くことで極めて危険な行動に出ることになるが、そのことについては後ほど触れる。
 ところで、3曲目の〈スカルボ〉の名が出てくる前に、"甲虫"という言葉が頻繁に出てくるが、甲虫のイメージは〈スカルボ〉のそれに合致している。"スカルボ"はベルトランの創造したいたずらな妖怪であるが、scarboという名がscarab"スカラベ"(フンコロガシ)から来ていることは確実で、その読み替えがドノソ本人によるものなのか、訳者木村によるものなのかは、スペイン語を解しない私には分からない。


 

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