マウリシオは16歳である。彼は同年代の男の子が好きな、何ものをも好きではない。女の子も映画もスポーツもバイクもおしゃれもまったく好きではないが、ラヴェルだけは好きなのだ。なぜかと問われてマウリシオは「ぼくと同じ名前だからだよ」と答えるが(マウリシオはモーリスのスペイン語名)、そんなことは本当の理由ではない。
しかしマウリシオは母親が用意したロベール・カザドシュの「夜のガスパール」を聴こうともしない。すでに「夜のガスパール」はマウリシオの心の中に刻み込まれていて、彼の内部から聞こえてくる「夜のガスパール」だけが本物なのであって、レコードなど聴くに値しないのだ。
16歳でラヴェルを好むということ、ジャズやポップスでもなく、よりポピュラーなクラシック音楽でもなく、ラヴェルを、しかもラヴェルの曲の中でもっともゴシック的な「夜のガスパール」を好むということは、ブルジョワ的感性の母親と対立する事を意味している。
シルビアはマウリシオのことをまったく理解することができずに、難詰を重ねていく。ラヴェルを"頽廃的"と決めつけ(確かにそうだ、だからこそ素晴らしいのだと言われたら彼女はなんと答えるだろう)、マウリシオに向かって「そんなことじゃ、とても生きていけないわよ。戦いに勝ち、野心を抱き、なんと言えばいいか、角のある人間になろうとすれば、もっと逞しくならなきゃだめよ」と叱咤する。
そのような言葉はマウリシオにとって暴力行為に等しい。「母親、父親、祖母、学校の仲間、先生といった自分との間にはっきり名づけられる関係をもっている人たち、あるいは自分にたいしてなんらかの権利をもっている人たちはひとり残らず、ぼくを凌辱しているんだ」とマウリシオは呟く。
ここに文学や芸術というものが世界に対して敵対的に対峙していく原型を見ることが出来ると同時に、それこそがホセ・ドノソ自身の少年時代の体験であったであろうことを明瞭に窺うことができる。
16歳で「夜のガスパール」を好むということは、少年時代からゴシック的感性を自らの内部に育んでいくことを意味している。ここで我々はホセ・ドノソが『夜のみだらな鳥』のエピグラフに掲げたヘンリー・ジェイムズ(父)の言葉を思い出さなければならない。
「精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」
しかも父ヘンリーは、そのことに「分別のつく十代に達した者ならば誰でも」気づくのだと言っているではないか。
だから、マウリシオは16歳でなければならないし、『夜のみだらな鳥』と並ぶドノソの代表作『別荘』という作品において、親たち、そして世界に対立していく33人の子供達もまた充分に子供でなければならない。
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