おそらく山尾悠子は、少数の詩人達を除いて、石の廃墟("石の"という形容語はなくてもよい。木造建築の廃墟というものは存在しないのだから)というものを本格的に導入した日本で最初の作家であろう。
そして日本的廃墟というものも存在しないのだから、山尾悠子の作品は廃墟の導入と同時に、ヨーロッパ的なものを導入することにならざるを得ない。『山尾悠子作品集成』には日本を舞台にした作品もあるが、彼女の作品はその雰囲気も、着想も、構成も、文体でさえ日本的なものではない。特に「傳説」にあっては、その想像力をデジデリオの作品に添って働かせることによって、ヨーロッパ的な世界に近づいていく。
「傳説」はその命令形の文体を夏目漱石の「幻影の楯」に借りているわけだが、「幻影の楯」自体がヨーロッパを舞台にした作品であったことを思い出してもよい。
あるいはまた命令形の文体の導入を必然とさせたのも、廃墟のイメージそのものであったかも知れない。デジデリオの作品を見ているとエドマンド・バークの言う"崇高"の情念を抱かざるを得ないのだが、デジデリオの廃墟が与えるイメージこそ、強圧的な命令形と共通するものがある。そこでは恐怖に満ちた支配力が廃墟によって実現されているからである。
デジデリオの最も強圧的な恐怖に満ちた世界観を見せる〈地獄〉
山尾はだから漱石の文体を借りただけではなく、ヨーロッパ的廃墟が喚起するイメージに限りなく近い文体を創り出しているのだと言えるだろう。「傳説」の文体が必ずしも古風なだけではなく、日本ではそれまであり得なかったものたりえたのはそこに理由がある。
さらに「傳説」の特徴としては、それが絵画のイメージに依っているということ、あるいは絵画のイメージを言葉に置き換える作業に徹していることを指摘しなければならないだろう。
かつてゴシック・ロマンスがピラネージの影響を受けて書かれた、というかピラネージが、とりわけその「牢獄」シリーズにおいてモチーフとして提示したものをそのまま模倣したことを思い出すべきだろう。
私はエドマンド・バークの項で、ゴシック小説の誕生がバークの美学ではなく、ピラネージを初めとするゴシック絵画の影響のもとに出発したと指摘したが、そのような関係が山尾悠子とデジデリオの絵画との関係についても言い得るだろう。
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