久しぶりにヘンリー・ジェイムズの長編を読んだ。短編に関しては関西大学出版部から出ている2冊の短編集を最近読んだが、『ねじの回転』以外はあまり読まれなくなったジェイムズの凄さを満喫した。長編は『使者たち』を読んで以来なので3年ぶりくらいかな。
これまでヘンリー・ジェイムズを「ゴシック論」の中で扱ってきたが、この『ワシントン・スクエア』などは比較的初期の作品なので、ゴシック的な要素はほとんどないし、後期の作品のような難解さもない。従って「読書ノート」の扱いとする。
ストーリーはいたって単純である。ニューヨークがまだ大都市ではなかった19世紀前半、功成り名を遂げた医師スローパー博士の娘に、財産目当ての求婚者モリス・タウンゼントが現れる。娘の名はキャサリン。絶世の美人だった亡母とは違ってこの娘の器量は十人並みで、頭の方もそれほどよくはなく、父スローパー博士はこの娘をあまり愛してはいない。
キャサリンはハンサムなモリスに首ったけとなり、結婚の約束までしてしまうが、父はモリスが財産目当ての怠け者だということを見抜き、二人の結婚に断固として反対し続ける。ここに父の妹のペニマン夫人という女が絡んできて、このキャサリンの叔母のバカっぷりがとてもよく描かれている。
登場人物は少ない。キャサリンと父スローパー博士、ペニマン夫人ともう一人の叔母アーモンド夫人、モリスとその姉モンゴメリー夫人の6人程度。この6人の描きわけが凄い。小説家の技量、とりわけ19世紀から20世紀の小説家のそれは登場人物を如何にクリアに描き分けるかによって測られるところがり、やはりその点でもヘンリー・ジェイムズは巨匠と呼ばれなければならない。
この小説で描かれているのは訳者の河島弘美の言うように、許されぬ結婚をしようとする娘に対する父親の心理なのであろうか。それがテーマなのだろうか。ヘンリー・ジェイムズはこのテーマを何かの噂から得たらしいが、家庭劇ともメロドラマとも言うべきそうしたテーマが、ヘンリー・ジェイムズの作品にあってはいつもその精緻を極めた心理分析によって背景に押しやられてしまう。
本当のテーマは登場人物の心理分析にこそあるので、読んでいくうちに他のことはどうでもよくなってしまい、読者はストーリーを追うのではなく、登場人物の心理の深淵に、あるいは登場人物同士の心理の争闘に、緊張感をもって臨むこととなる。
『ワシントン・スクエア』は35の節からなる小説であるが、それぞれの節が登場人物1対1の差し向かいの構図をもっている。集団の場面や複数人の場面もあるが、ほとんどがこの構図に納まるのである。
たとえば4節と7節、10節はモリスとキャサリン、8節と11節はキャサリンとスローパー博士、12節はスローパー博士とモリス、14節はスローパー博士とモンゴメリー夫人、16節はモリスとペニマン夫人、19節はペニマン夫人とスローパー博士……というような組み合わせで心理的駆け引きが続いていく。
この1対1の構図は複数の登場人物を配した心理小説によくみられるもので、夏目漱石の『明暗』もこの構図からはずれるものではない。漱石の登場人物同士の心理的争闘ぶりは、『ワシントン・スクエア』におけるそれよりもはるかに凄まじいものがあるかも知れないが。
夏目漱石はヘンリー・ジェイムズの『黄金の盃』を読んでいて、その頁に「此人ノ文ハ分カルコトヲ分リニクキ言論デカクノヲ目的ニスルナリ」という感想を書きつけていたことが知られているが、私に興味があるのは漱石の『明暗』がどの程度ヘンリー・ジェイムズの影響を受けて書かれているかということである。
『明暗』も家庭劇であり、ヘンリー・ジェイムズもよく家庭劇を書いた。家庭劇は心理小説の舞台としてはおあつらえ向きの条件をもっている。まず登場人物が少なくて済む、1対1の構図をつくりやすいということが挙げられる。また不倫が絡めば男女の愛という極めて複雑で心理的な世界に踏み込むことができる。
本家フランスの心理小説も主要なものは不倫が絡む家庭劇としてしつらえられている。ラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』も、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』も『ドルジェル伯の舞踏会』もそうである。日本でも大岡昇平がラディゲに倣って『武蔵野夫人』を書いた。
ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』(2011、岩波文庫)河島弘美訳
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