柏崎談笑会が初めて柏崎で開かれた。柏崎談笑会は昭和二十七年に、野島寿平が石黒敬七、山田貢に呼び掛けて設立されたもので、六十一年も続いていることになる。毎月一回必ず開かれていて、十一日に開かれたのは何と七百三十八回目だった。
野島寿平は越後タイムスが戦後復刊する時に資金を提供した人で、タイムスの恩人の一人である。石黒敬七は柔道家で藤田嗣治をパリで投げた人、山田貢は東大出の医者で『あったとさ』の著書がある。
越後タイムスとは縁の深い談笑会に、今回を含めて四回しか出席したことがない。最初は前主幹・吉田昭一の後を継ぐことになった時、二回目は開催日をその時限りで金曜日に変更してもらった時、三回目は週刊を月二回刊とする前の一昨年のことだった。
昭和三十一年の新春号に談笑会忘年会のことが書いてあって、当時は主幹を退いて横浜にいた中村葉月が初めて出席したことを野島が書いている。ウィークデーの夜に開催される談笑会に出席することは、中村でさえ難しかったという、これは言い訳である。
この時の出席者は十五人。決して多くはない。現在では堀井真吾さんや権田恭子さんなど若い人が参加していることもあって、毎回十人前後の参加がある。二人~三人で細々とやっていた時期もあるとのことで、よく途絶えなかったものだと思う。
久しぶりに懐かしい方々にお会いできて嬉しかった。いつまでも続いてほしいものだ。
野島寿平は越後タイムスが戦後復刊する時に資金を提供した人で、タイムスの恩人の一人である。石黒敬七は柔道家で藤田嗣治をパリで投げた人、山田貢は東大出の医者で『あったとさ』の著書がある。
越後タイムスとは縁の深い談笑会に、今回を含めて四回しか出席したことがない。最初は前主幹・吉田昭一の後を継ぐことになった時、二回目は開催日をその時限りで金曜日に変更してもらった時、三回目は週刊を月二回刊とする前の一昨年のことだった。
昭和三十一年の新春号に談笑会忘年会のことが書いてあって、当時は主幹を退いて横浜にいた中村葉月が初めて出席したことを野島が書いている。ウィークデーの夜に開催される談笑会に出席することは、中村でさえ難しかったという、これは言い訳である。
この時の出席者は十五人。決して多くはない。現在では堀井真吾さんや権田恭子さんなど若い人が参加していることもあって、毎回十人前後の参加がある。二人~三人で細々とやっていた時期もあるとのことで、よく途絶えなかったものだと思う。
久しぶりに懐かしい方々にお会いできて嬉しかった。いつまでも続いてほしいものだ。
(越後タイムス10月25日「週末点描」より)
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