玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(4)

2024年01月25日 | ラテン・アメリカ文学

 たとえば第6章には、主人公ホセ・セミーの曾祖母メーラばあさんが、キューバ分離独立運動での武勇伝を語る場面で、次のような一節に出くわすことになる。

「その口には、時間の配置も、食堂でトランプ遊びをしている者たちの沈黙も入ることがなかったが、すぐに例のごとき亡霊的な対話が彼らのことまで亡霊に変えてしまい、タロットの図表盤に近々やってくる自らの不幸の嘆きを読みとったり、黄泉川の小舟の上で自らが鞭打たれる音を聞くことになる日の近さを解読したりしている豪華絢爛たる封建領主のような姿をまとわせるのだった。」

このような比喩するものが比喩されるものと密着するのではなく、比喩されるものから自由に遊離していく直喩表現に出会ったときに、私はレサマ=リマが『マルドロールの歌』の影響下で書いているのに違いないという確信を抱いたのだった。イジドール・デュカスの奇態な直喩がある種感覚的な精度を持っていて、イメージとしては分かりやすい特徴(それを評価することができないにしても、誰もが「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というものを視覚的に捉えることはできる)を持っているのとはやや違って、視覚的なイメージだけでは追い切れないところがある。
 比喩するものと比喩されるものとの距離が、より観念的な精度によって確保されているという風に読めるところには、明らかにデュカスの直喩表現とは違った部分がある。それとここでは〝時間〟といったものが重要な要素となっていて、それは空間的な情景に対する感覚的なイメージ喚起力では追い切れないものだという事実である。もう一か所、時間的なものが直喩の対象となっている一節を読んでみよう。第8章、ホセ・セミーが叔母の住む田舎に寝台車で出かける時の不眠の一夜を描いた部分である。

「夜じゅう一番気になったのは時間が実体化したことだった。時間は距離を覆う灰色の、途切れめのない一本の線に変容することによって、目に見えるものとなったのだった。目を閉じても灰色の線が追いかけてきて、それはまるで水平線に姿を変えたカモメみたいに、真夜中の中を横切っていきながら甲高い鳴き声を立てて彼を勢いづけるのだった。すると、その線が、揺れ動いたり再びあらわれたりしながら、鳴き声をたてているみたいに感じられるのだった。」

 実体化した時間を、「真夜中を横切って甲高い声で鳴く水平線となったカモメ」などというものの視覚的イメージとして捉えることはほとんど不可能である。こうした部分については、レサマ=リマの直喩表現がデュカスのそれを進化させているのだと理解するのが正しい見方であろう。
 セミーが叔母の田舎で砂糖農園を訪問し、その農園主の暮らし方が紹介される場面では、より穏当な直喩表現が読まれるだろう。

「これはまったくエデンの園のようなところで、そこではカモメのように眠り、小ぶりなサメのように食らい、涅槃に暮らす齧歯類のように退屈して過ごした。」

 どうということのない直喩と思われるかもしれないが、ここでカモメとサメ、齧歯類という動物たちが登場することに注目したい。動物を使った直喩は先に引用した「ミシンと雨傘の出会い」の部分に出てくる齧歯目や鼠、もう一つの引用に出てくるマッコウクジラの直喩に見られるように、『マルドロールの歌』の最大の特徴かもしれないからだ。

 

 

 


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