登場人物が多いということは、作品が長いということに当然帰結するのであって、『幻滅』は東京創元社版全集の中でもっとも長大な小説である。ということはバルザックの作品の中で最も長い小説ということになる。上巻232頁、下巻303頁で、合わせて535頁の大作である。全集で上下巻に分けて収載されているのは他に『浮かれ女盛衰記』しかなく、こちらは上巻372頁、下巻129頁で合計501頁である。
二つの小説はリュシアン・ド・リュバンプレを主人公とする一つの小説とも見なされるから、両方合わせれば1000頁を超える大長編ということになる。『幻滅』は最後に、自殺をしようとするリュシアンを救うカルロス・エレーラの出現の段階で終わっているから、カルロスことヴォートランの活躍を待って初めて完結する一つの物語なのである。つまりこれは「人間喜劇」全体の縮図とも見なしうる一編なのであって、「人間喜劇」が追求したすべてのテーマを含んだ、それこそバルザックの代表作といっても間違いではない。
しかし、取り敢えずは『幻滅』を一つの作品として考察することにしよう。なぜこの小説が長くなったのかについて考えてみたい。そこには長編小説にとって必要な複数のプロットというものが存在する。一つはダヴィッド・セシャールの物語であり、もう一つはリュシアン・ド・リュバンプレの物語である。ダヴィッドとリュシアンは『幻滅』の第一部で、「二人の詩人」として紹介されるが、この二人はアングレームという田舎の親友同士として出発し、対照的な生き方によって対照的な帰結を迎える。
ダヴィッドの物語は、印刷所の経営者である父の跡を継ぎ、その強欲な父の犠牲となり、同業者との競争で金銭的な危機に直面しながらも、新しい製紙術の発明によってそれを乗り越え、幾多の苦難を経験し、リュシアンの妹エーヴと二人でささやかながら幸せを得ていくというというもの。
一方リュシアンの物語は、バルジュトン夫人に才能を見出されパリでの成功に憧れて田舎を棄て、そこで文学サークルや貴族社会、そしてジャーナリズムの世界に足を踏み入れるが、その苛酷で欺瞞に充ちた社会のためにすべての野望を打ち砕かれ、親友のダヴィッドをも裏切って、自殺の瀬戸際まで追い込まれるというものだ。
ダヴィッドとリュシアンは対照的に描かれているが、二人の物語が緊密に結びついて小説は進行していく。プロットが大きくは二つあるとしても、それらは複雑に絡み合っていて、テーマの拡散を感じさせない。私は『ウジェニー・グランデ』で、金銭のテーマと恋愛のテーマがうまくかみ合わずに拡散してしまっていることを指摘したが、そのようなことは『幻滅』において問題にはならない。
長編小説にあっては短編小説のようにプロットが一つに収斂されるのではなく、複数のプロットが複雑に絡み合い、緊密に結びついて豊かな世界を現出することが求められるが、『幻滅』は正にそのような作品なのである。
それにしてもこの小説にはさまざまな社会階層が描き出されていて、その点だけでも驚嘆すべきものがある。基本的には労働社階層、ブルジョワ階層、貴族階層ということで、宗教の社会は描かれていないが、最後にカルロス・エレーラが登場して、偽物ではあれ宗教の世界も垣間見せてくれる。
もっと驚くべきことは、バルザックがさまざまな業界とそこに所属する人物達とを、徹底した取材によっていかにもそれらしく描いていることである。印刷業界、文学サークル、出版業界、新聞や雑誌のジャーナリズム業界、劇場と役者の業界、手形割引人の業界、代訴人の業界などなど、数え上げればきりがない。
ヘンリー・ジェイムズはバルザックのこうした膨大な素材が、彼の想像力から生み出されたものだと言っているが、しかしこの〝本当らしさ〟は、バルザックが実際に体験したことへの優れた観察眼によって獲得されたものと思わざるを得ないのである。
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