その前にドノソは「インブンチェ」のイメージを提出する。インブンチェとは「目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫い塞がれ、縫いくくられた生き物」であり、それは肉体が建造物の中に閉じこめられるというイメージをはるかに超えて、肉体が肉体自体の内部に閉じこめられるというイメージを喚起する。
インブンチェのイメージは執拗に繰り返される。しかもインブンチェにされてしまうことの恐怖と、インブンチェにされてみたいという好奇は、死んだブリヒダだけではなく《ムディート》自身の妄執となる。《ムディート》はアスーラ博士の手術によって臓器を摘出されて20%の大きさの体に変身させられ、この小説の中で重要な役割を演じるイリス・マテルーナの愛玩物となる。
そして《ムディート》は最後には老婆たちによって、インブンチェにされてしまうだろう。その場面は次のようなものだ。
「……老婆たちは縫う。おれの頭の上にさらに袋をかぶせる。別の老婆たちが近づき、もう一枚の暗黒の包みで、もう一枚の沈黙の表皮でおれを蔽う。まわりの声が弱められ、ほとんど聞き分けられない。聾で、盲で、唖で、性を失った小さな包み。布切れやロープで縛られ、何枚もの袋に縫い込まれて、いくえにも重なったジュートの糸の隙間からしか空気は吸えない。この内部は暖かい。ごそごそ動きまわる必要がない。おれはもう、何も必要としない。この包みが、おれそのものなのだ。」
ゴシック小説の第一の条件が〝空間恐怖〟だとすれば、これは究極の空間恐怖の表現となっている。『夜のみだらな鳥』の成立まで、どのようなゴシック作家もこれほど肉体に密着した空間恐怖を描いたことはなかった。
《ムディート》はこの小説の中で聾であり唖であることを装うのであるが、最後に彼は本当に聾であり唖である存在に変身させられる。盲と不能ということまで付加されて……。当然そこには子宮願望というか子宮回帰への願望があるが、この部分は最初に出てくるブリヒダの〝包み〟に完全に呼応しているのである。
そしてゴシック小説における空間恐怖はアンビヴァレンツなものであって、閉じこめられることへの恐怖と、閉じこめられることへの好奇が併存していることを特徴とする。ドノソもまた例外ではない。インブンチェにされた《ムディート》は、そこに安住のすみかを見出しているようにさえ見える。
『夜のみだらな鳥』の中ではそうしたアンビヴァレンツな空間恐怖が表明される場面が無数にあると言ってもよい。イリス・マテルーナを閉じこめることへの願望は次のように表現されている。
「おまえの内側にあるものをすべて、徹底的に掻きだしてしまう。おまえは殻だけになり、飽くことなく「ヴェニスの謝肉祭」が繰り返される、狭くて、風変わりで、退屈な場所に、そんな姿で閉じこめられる。嘘でなく、オルゴールのなかのおまえの安全な生活が羨ましい。おれはお前のこの最後の姿を大事にして、お前が逃げ出したり、ほかのものに変わったりすることのないように気をつけよう。包みの中に入れてベッドの下にしまっておこう」
これは最後に《ムディート》が閉じこめられる姿そのものであって、ここで表明されているイリスへの羨望は最後にむくいられるわけである。そして畸形児《ボーイ》の願望もまた閉じこめられることである。
「ぼくにとって大事なのは、中庭の内部だけだ」
「ぼくは自身の中庭に、あんたたちが最初の秩序を維持させていく中庭に、閉じこもってしまうんだ」
このように《ムディート》と《ボーイ》の願望の同質性は、読んでいる読者にとってどちらがどちらだか分からなくなるといった事態にまで及ぶのだが、そのことはまた別のテーマとなる。
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