玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(1)

2021年12月23日 | 読書ノート

 この半年あまり、わが「北方文学」の84号(近日刊行)に「欲望の他者への差し戻し――ジェイムズ・ホッグの分身小説」を書くために、James HoggのThe Private Memoirs and Confessions of a Justified Sinnerを、四苦八苦して原語で読んだりしていたため、ブログを更新する意欲を失ってしまっていた。しかし、ジェイムズ・ホッグ論を書くにあたって、過去に書いておいたこのブログの「ゴシック論」が大いに役に立ったので、ブログを書き続けることの重要性を認識しているところだ。

「北方文学」の原稿も書き上げ、一段落したので、最近新訳の出たヘンリー・ジェイムズの『ロデリック・ハドソン』を読むことにした。小説を読むことに関しては、「困ったときのバルザック」を信条にしていて、何を読むか迷ったときにはバルザックに縋ることにしてきたが、ジェイムズもまた、私を小説の世界に連れ戻してくれる重要な作家である。漱石以来、ジェイムズは〝難解な作家〟として通っているが、私にはその理由が分からない。ジェイムズの小説には特段ドラマティックな展開もなければ、それほど傑出した人物が登場するわけでもないが、そのいわゆる心理分析的手法は、そうしたものを補って余りあるからである。

『ロデリック・ハドソン』もまた、そのような小説である。簡単にストーリーを紹介すれば、田舎でくすぶる天才彫刻家ロデリック・ハドソンが、独身の金満家で芸術愛好家でもあるローランド・マレットにその才能を見込まれ、ローマに出て成功するが、その後社交界への出入りや絶世の美女クリスチーナ・ライトに惑わされ、怠惰と放蕩の中で天才を失ってしまい、最後には自殺を遂げるという物語である。

 まず、この小説が1875年、ジェイムズ32歳の時の作品で、彼自身が事実上の処女作としていた作品であることを言っておかなければならない。私がこの作品の前に読んで失望した『信頼』という長編は36歳の時の作品であるから、3年しか離れていない。

 私は『信頼』を読んで、初期の作品としての未熟さを指摘したのだったが、それならば『ロデリック・ハドソン』も、時期的に考えて、未だジェイムズがジェイムズになっていない時代の作品なのだろうと考えていた。だから筑摩書房の「世界文学大系」に収められていることを知ってはいても、食指が動くことはなかったのである。

 しかし『ロデリック・ハドソン』は、ジェイムズが処女作の段階で既に大作家のおもむきを持っていたことを知らしめる作品である。あの出来の悪い『信頼』に比べたら雲泥の差であり、筋立ても人物造形もしっかりしている。なぜジェイムズがニューヨーク版全集に、『ロデリック・ハドソン』は入れても、『信頼』を入れなかったのかがよく理解できるのである。

 また、芸術家の才能というものが、いかに環境によってスポイルされやすいものか、という重要なテーマを扱っていることも特徴的である。ジェイムズの小説の主人公には色々なタイプの人物がいるが、芸術家というのはロデリック・ハドソンだけかも知れない。芸術家の挫折を描いて、明らかにバルザックの『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』の影響を見てとることができるが、ハドソンにはヴォートランのような救いの神は現れない。

 それよりも最初に思ったのは、ジェイムズ自身の晩年の傑作『使者たち』との類似性についてである。『使者たち』は1903年の刊行だから、この作品とは30年の隔たりがある。しかし、アメリカ人の青年がヨーロッパへ(『使者たち』の場合はパリへ、『ロデリック・ハドソン』の場合はローマへ)出て、ヨーロッパ女性の誘惑に負けて堕落していくという点で共通している。

 ただし、私はそうした共通点よりもむしろ、語りの主体となる人物(『使者たち』の場合はランバート・ストレザー、『ロデリック・ハドソン』の場合はローランド・マレット)の持つ、傍観者性における共通性を重要なものと考える。ストレザーは、パリのヴィオネ夫人に誘惑されたとされるチャド・ニューサムをアメリカに連れ戻しに〝使者〟として派遣されるのであり、ストレザー自身は物語の中で傍観者的な位置にある。また、『ロデリック・ハドソン』のマレットは、天才彫刻家ハドソンを売り出すためにローマに連れていくという主体的な位置にいるとはいえ、物語の中では同じように傍観者的な位置に存在している。

 

・ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(2021、講談社文芸文庫)行方昭夫訳

 



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