玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(2)

2015年10月31日 | ゴシック論

 二番目の作品「生命線」はもともと短編小説ではなく、フエンテスの最初の長編『澄みわたる大地』の一部であり、メキシコ革命に関わる挿話である。『澄みわたる大地』はフエンテスの小説としては非常に分かりやすい作品であり、いわゆる"全体小説"として読んだが、それほど優れた作品とは思わない。
 ゴシック的な要素はないし、フエンテスの良さが出ているとは思えない。むしろ訳の分からない『脱皮』の方がフエンテスらしくて私は好きだ。ただし、この「生命線」と題した挿話は強烈な印象を残す。
 革命軍に所属する四人の兵士が脱獄するが、目的意識を失った三人が意気阻喪する中、ヘルバシオだけは革命への忠誠のためになんとしてでも生き延びようとする。ヘルバシオは一人で革命軍の一派と思われる将軍のもとにたどり着くが、すでに寝返ったあとで、彼は監獄に舞い戻ることになる。
 ヘルバシオは残りの三人がどこに逃げたかと詰問され、一人で銃殺になるのが恐いがために、彼らの居場所を告げてしまう。「一人で死ぬのは嫌だ。死ぬなら一緒に死にたい」と言っていた三人とともにヘルバシオは銃殺される。
 フエンテスはヘルバシオの最期について「人より先に死ぬのがこわかったので目をつむった」と書いている。人はみな一人でしか死にようがないのだが、最後の希望として仲間と一緒に死にたいと思うのだろうか。
 この救いようのない物語には、カルロス・フエンテスのメキシコ革命に対する絶望や、人間の本性へのペシミズムが色濃く刻印されているように思う。そんな意味で『澄みわたる大地』の中でもっとも強い印象を残す部分なのである。

 三番目の「最後の恋」も、もともと短編小説ではなく、彼の次の長編『アルテミオ・クルスの死』の一部である。『アルテミオ・クルスの死』も複雑な話法を駆使しているわりには大変分かりやすい小説であり、メキシコ革命に乗じて裏切りをも含めてあらゆる手段を使って成り上がったアルテミオ・クルスの晩年の絶望を描く。
「最後の恋」はバカンスのために、金で買った若い女と海辺のリゾートホテルで過ごすアルテミオ・クルスの若い肉体への嫉妬と、老いたる自分への絶望を一人称で語る部分である。この部分にはフエンテスのゴシック的な感性がいかんなく発揮されていると思う。
 次のような肉体観はヨーロッパ中世の「死の舞踏」とも通底する、極めてゴシック的な思想を明示している。
「淫らな肉体、くびれた腰、はちきれそうな腿。その小さな細胞の中にもすでに時間という癌細胞が秘められているのだ。あの見事な肉体も束の間のものでしかない。年月が経てば、あの美しい肉体もほかの肉体と見分けがつかなくなるのだ。陽射しを浴びて汗をかき、オリーブ油で光っているあの肉体も死体と変わるところはない」
 ボードレールにも通ずるこのような肉体観は、カルロス・フエンテスがいかにヨーロッパのそれに影響されていたかを証しているのである。フエンテスが古代メキシコの土着的精神性とのアンビバレンツな葛藤を持っていたとしても、それを強調しすぎるのは間違っているのではないか。

 


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