玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(14)

2015年08月27日 | ゴシック論

『耶路庭国異聞』に含まれる「黒金」という作品がある。この作品はアラン・ロブ=グリエの「秘密の部屋」という作品に触発されて書かれたものだという。ロブ=グリエのこの作品は『現代フランス幻想小説』というマルセル・シュネデール編集によるアンソロジーに収められていて、白水社版で読むことが出来る。
 サブタイトルに「ギュスターヴ・モローに捧げる」とあるように、モローの絵画作品を言葉で再現したような作品で、ロブ=グリエはそこで、ひたすら放埒な描写の夢に浸っているように思われる。
 もちろんモローの作品が静的なものである以上に、動きをまったく欠いた文章であり、ひたすら絵画の細部を執拗に描いていくことによって、ほとんど時間は静止している。

ギュスターヴ・モロー〈ヘラクレスとレルネのヒュドラ〉

「まず最初に見えるのは赤い斑紋、鮮烈な、きらきら光っている、しかしくすんだ赤の、ほとんどくろい影をたたえている斑紋である」という一文が最初に置かれている。この一文は山尾悠子の「黒金」のエピグラフともなっているが、こんな調子が6頁にわたって続く短い作品である。
 赤い斑紋とは裸の女の死体に残された傷口の血痕であり、そこから流れ出て凝固した血液の葉脈までが克明に描かれていく。
 その女を殺したと思われる男が現れるが、現れるのではなく、最初からそこに、死体から少し離れた階段の3段目に右足を乗せているのである。絵画では描かれたものは一挙に現前するのだが、言葉で書く時にはひとつずつ描写していかなければならない。
 顕在的にはそこで時間は停止しているのだが、書くことにおける潜在的時間は静止していない。絵画にあってもひとつずつ描いていくのに違いはないのだが、絵画が絵画として示される時には、すべては一挙に現前する。
 小説もそうだと思われるかも知れないが、小説のテクストは一挙に現前することが出来ない。そこに"読む"という行為が介在するからである。ここに絵画と言語テクストとの本質的な違いを見ることも出来る。書くことと描くことの違いだけでなく、受容の側の読むことと見ることの本質的な違いにそれは帰せられることだろう。
 また絵画を言語によって再現することの意味についても考えさせられる作品である。言語は絵画を模倣するかも知れないが、絵画が絵画を模倣するように模倣するのではない。同じ絵画を言語によって再現しても、違う作者が書けばそこにはまったく違った言語世界が開かれることだろう。
 ところで山尾悠子の「黒金」の方は「秘密の部屋」の2倍くらいの作品であり、ロブ=グリエに倣って放埒な描写の夢に浸っているだけではない。山尾はそこに静止する時間とともに、遡行する時間をも導入している。ロブ=グリエと同じことをするわけにはいかない。その上を行かなきゃという山尾の挑戦的精神が見て取れる作品である。
 部屋(山尾もまた「秘密の部屋」の内部を描く)には巨大な柱時計が置かれている。その時計が最初深夜零時を告げ、以降11時50分、11時25分、11時5分、11時、10時50分、10時45分、10時15分、10時というように時間が遡行していく。
 そのたびに登場する女と少年、そして一匹の狼は互いにその位置を変え、その姿勢を変え、その生死の状態をすら変えていく。描写のスタイルはロブ=グリエにそっくりだが、山尾は遡行する時間を導入することで、作品をより複雑なものにしている。
 しかし、そこで時間は逆行などしていない。時計の針が10分ないし15分おきに、戻されていくたびに、時間はそこから再びリニアーなものとして流れ出すのであり、本質的に時間は逆行などしていない。言葉は当然時間を遡行することは出来るかも知れないが、時間を逆行させることは出来ないのだ。
 しかし、そんな不可能に挑んだのが、キューバの作家・アレホ・カルペンンティエールの「時との闘い」であった。

『現代フランス幻想小説』(1970、マルセル・シュネデール編)アラン・ロブ=グリエ「秘密の部屋」平岡篤頼訳

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山尾悠子『山尾悠子作品集成... | トップ | 山尾悠子『山尾悠子作品集成... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゴシック論」カテゴリの最新記事