玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(2)

2019年07月27日 | 読書ノート

 このような文章を挙げていけばきりがないが、そこから分かることは、フローベールのロマンチシズムと言っても、そこには情熱に対する過度の熱狂や、装飾的華麗さは認められないということである。

ギュスターヴ・モロー《出現》

 書かないと言っておきながら書いてしまうが、「ヘロディアス」におけるサロメのダンスの場面は確かに豪華絢爛ではあるが、ギュスターヴ・モローが描いたような装飾的な要素はないのであり、まさにフローベールがこの場面で参考にした(と言うよりもそれに触発されて書いた)、ルーアン大聖堂のレリーフのように、素朴な輪郭を保っているように思う。

ルーアン大聖堂、タンパンのレリーフ(逆立ちして踊るサロメの姿が見える)

 ところで、「素朴なひと」の主人公フェリシテのボヴァリー夫人との対照性について言っておかなければ、何も言ったことにはならない。ボヴァリー夫人は農村の出身でありながら、強い上昇志向を持ち、奢侈を好み、色欲に溺れ、まったく自制心というものを欠落させた女である。

 一方フェリシテは信仰心厚く、自分の身分をよくわきまえ、よく働き、主人につくし、主人の子供や自分の甥を愛し、主人からもらった鸚鵡をそれが死んで剥製になってからもまだ愛し続けるという、純朴な女である。

 フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったらしいが、決して「フェリシテは私だ」とは言えなかっただろう。なぜならボヴァリー夫人に対して否定的であるからこそ、謙虚に「ボヴァリー夫人は私だ」と言えるのであって、フェリシテのように純朴な善人に対して、自分を同化するようなことができたはずがないからである。

 私にとってよく分からないことは、フローベールがボヴァリー夫人に人間的としての価値を認めていたとは思えないとしても、ではフェリシテのような純朴な人間に理想を求めていたかどうかということである。フェリシテが美徳の塊のような女であったとしても、そこには古い価値観によって認められる部分しかないではないか。

 いずれにしてもフェリシテの物語は、次々と愛する対象を失い、悲しみに暮れながらも、新しい愛の対象に向かって生きる意味を見出していく女のそれである。

 フェリシテはまず恋人に裏切られる。彼女に結婚を申し込みながらも、徴兵逃れのために金持ちの老女と結婚するテオドールの裏切りである。

 愛の対象は次に、彼女が奉公するオーバン夫人の二人の子供たち、ポールとヴィルジニー(ベルナルダン・ド・サン=ピエールの名作から採った名前)に求められる。ポールが進学してからは、フェリシテの愛情はひとえにヴィルジニーに注がれる。

 ヴィルジニーが修道院に入ることになると、フェリシテは甥のヴィクトールを呼び寄せて、今度はヴィクトールに愛情を注いでいく。しかし、水夫になったヴィクトールはハバナで病死してしまう。そして病弱なヴィルジニーに再び愛情を注いでいくが、彼女も修道院で亡くなってしまう。

 しばらくヴィルジニーの思い出にオーバン夫人とともに泣き暮らすことになるが、次に彼女の心をときめかせるのは、アメリカ生まれの鸚鵡であった。ルルという名の鸚鵡は老いたフェリシテの唯一の慰めとなるが、そのルルもまた死んでしまう。

 フェリシテは今度はルルを剥製にしてかわいがり続けるが、次に亡くなるのはオーバン夫人である。フェリシテは虫が喰ってぼろぼろになってもルルを愛し続ける。そうしてフェリシテも死んでいくのである。

 人は皆死んでいくが、愛する対象があればこその生である。たとえそれが鸚鵡であっても。そんな悲しい物語をフローベールは書きたかったのに違いない。

(この項おわり)


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