玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(1)

2020年01月29日 | 読書ノート

 フローベールの『感情教育』はいろいろなことを考えさせてくれたが、それを小説として楽しむことだけはできなかった。そんなとき読みたくなったのはバルザックである。『ボヴァリー夫人』を読んだ時に、やはり口直しにスタンダールが読みたくなって、『パルムの僧院』を読み直したのだったが、今回も『感情教育』を読んで、もっと安心して読める作家の作品が読みたくなったのである。

〝安心して読める〟ということがどういうことなのか、それを言い出すと長くなりそうだが、私の場合は第一にもっと魅力的な主人公や登場人物に会いたいということなのだ。ペルーのノーベル賞作家、バルガス=リョサは、ロマン主義小説は偉大な人物を主人公にしたが、現代小説の大きな特徴は平凡な人物を主人公にしたことであり、そこにこそ現代社会と人間を描く場所があるということを言っている。フローベールはそうした意味で現代文学の先駆者であったということをリョサは言うわけだが、それが現代性が要求することであると同時に、読者にとっては違和感の元凶でもあるのだ。

 フローベールの現代物の作中人物達の凡庸さは、読むものにとっては辛いものがあり、小説を読むことの喜びが、第一に現実には存在しないような魅力的な人物と出会うことことだということは、現代文学というものを正しく理解していても、避けがたい誘惑であることに違いはない。

 そうした意味でスタンダールやバルザックの登場人物達は、間違いなく魅力的であるし、バルザックの場合にはどんなにその人物が道徳的に劣った人物であれ、悪徳に染まった人物であれ、彼らが魅力的でないことはあり得ない。たとえば『従妹ベット』の高級娼婦ヴァレリーや、『ゴリオ爺さん』にも出てくる稀代の悪漢ヴォートランは、ほとんど偉大と言ってもいいくらいだ。

 なぜなのか? それは彼らが確信犯的に生きているからである。ヴァレリーと『感情教育』のロザネットを比較してみるといい。ヴァレリーは娼婦であることに誇りを持って多くの男を手玉に取っていくが、ロザネットの方はいかにも場当たり的で一貫性がなく、娼婦であることへの自負に欠けている。

 また19世紀の批評家イポリット・テーヌは「バルザックは彼のヴァレリーを愛している――」と言ったそうだが、バルザックが彼の創造する人物のほとんどを愛していたのに対して、フローベールが彼のロザネットを愛していたとは到底思えないし、それはその人物が主人公である場合でも変わりはない。フローベールがボヴァリー夫人を愛していないのに対して、バルザックはたとえば『谷間の百合』の主人公アンリエットことモルソーフ夫人を愛してやまないだろう。

『谷間の百合』を選んだのは一応バルザックの名作といわれる作品を中心に、しばらくは読んでいこうと思っているからである。これまでにバルザックは十編くらい読んできたが、この作品は他の作品とは趣を異にしていることに気付く。なぜかと言えば、この一編が長大な書簡であり、その為に一人称で書かれているということである。

 あれほど大勢の登場人物達を自在に動かし、彼らの一人ひとりを客観的に描き分けていくバルザックに、一人称はまるで似合わないと思うのだが、そんな意味で珍しい作品なのだ。一人称にしたことの効果は、もちろん一人称の主体であるフェリックス・ド・ヴァンドネスの女性に対する熱情を思い切り語らせることができるというところに表れてくる。

 そんな意味でフェリックスとモルソーフ夫人との出会い、トゥーレーヌでのブールボン王家復活の祝いの席での出会いの場面は出色である。フェリックスはモルソーフ夫人の露出した肩にいきなり接吻するのである。フェリックスは夫人の肉体的魅力に眩惑されてしまうのだが、この即物的な場面が、この後の二人のプラトニックな恋愛と強いコントラストをなして、強烈な印象を残す。彼女の魅力的な肉体の描写は次のようなものである。

「私の目はいきなり真っ白な、むっちり盛り上がった、それこそその上をころげまわれたらと思うような肩にぶっつかったのです。かすかにばら色を帯びて、生まれて初めて肌を見せたかのように、顔を赤らめているかと思われる肩、さながら魂が宿っているかのようなういういしい肩――その繻子の光沢をもった肌は、光を浴びて羽二重のように輝いているのです。その肩は一本の線によって二つに分たれ、私の目は手より大胆に、その線に沿って流れました。私はもうわくわくしながら、伸び上がって胸のほうをのぞいてみると、それこそ完全に魅せられてしまいました。胸は絽のコルセットで清らかに覆われているのですが、一点の非のない丸みをもった空色の二つのふくらみが、レースの波のなかにふんわりと横たわっています。」

 


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