玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(28)

2019年02月11日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』④
 翻訳されたものについて、他の部分は以上の内容の変奏のようなものだ。シャルトル大聖堂が数あるゴシック大聖堂の中で、建築としていかに純粋であるか、そしていかにマリア信仰において純粋であるかということを、デュルタルの独白と、もうひとりの主要な登場人物でシャルトル大聖堂について知り尽くしているプロン神父との会話の中で、ユイスマンスは語っていく。
 それは他の大聖堂、とりわけパリのノートル=ダムとの比較の中で強調されていく。一つはその建築としての側面において、もう一つにはその信仰のあり方において。デュルタルはノートル=ダム・ド・パリについて次のように話すのである。

「この聖堂は上から下まで修繕され、手を入れられています。彫像が申し分なく現代的に見えない場合には、継ぎが当てられるのです。ユゴーはこの教会に熱狂しましたが、実はこれは二流品でしかありません。」

 ユゴーはノートル=ダム・ド・パリに、各時代のさまざまな様式の痕跡を見て、その歴史的建造物としての価値を高く評価したのだったが、ユイスマンスはそのような見方をしない。もちろんユゴーも、パリ大聖堂の破壊の後の改竄に対しては厳しい眼を向けてはいるのだったが、ユイスマンスはあの二つの塔、いささかゴシック建築らしくない、パリ大聖堂の二つの塔についてもそれを認めることはないのである。彼の評価は身も蓋もないものである。

「パリの聖母堂の塔を検討してみるがよい。鈍重で、陰気で、ほとんど象みたいに肥えている。ほぼ上から下まで苦しげな開口部を穿たれたこれらの塔は、ようやくのことで立ち上がりながら、重い体躯がすぐ背伸びをやめてしまう。」

 つまりパリ大聖堂には昇高性が不足しているのだ。一方シャルトル大聖堂の二つの塔は、申し分のない昇高性を誇示している。南側(向かって右側)の塔は幾何学的な二等辺三角形の鋭い切っ先を天空に突き刺しているし、北側(向かって左側)の塔はよりゴシック的な彫刻を施された優美な姿で、蒼天に屹立している。


パリ大聖堂正面

シャルトル大聖堂正面

 この昇高性はゴシック建築の基本的な構造である尖頭アーチによってもたらされるものだが、ユイスマンスはそれを安定性と耐久性の見地から見る技術論的な学説を批判している。それは半月形アーチよりもはるかに堅牢であったがために採用されたのでは決してない。ユイスマンスはシャトーブリアンに倣って次のように言う。

「私から見てほぼ確実だと思えるのは、人間があれこれと異論の多いあの尖頭アーチ式身廊の外観を見つけたのは、たぶん森の中だ、ということだ。」

と。つまりゴシック建築の昇高性は、無数の梢を天に向かって伸ばしている森のイメージ、そして単体としての塔を見るならば、太い幹と根によって支えられた大樹が、次第に先を細らせて天に昇っていくイメージによってもたらされるものなのだ。
 ユイスマンスは正しく「どんな塔にせよ、先細の鐘楼を持たぬ塔は天空に翔け上がることはできない」と書いている。パリ大聖堂の塔は上から下まで同じような幅を持ち、尖頭形の構造を持っていない。だからユイスマンスにとってそれは「天空に翔け上がること」のできない塔でしかないのである。
 当然「天空に翔け上がること」はユイスマンスにとって、神の導きによって天国に至ろうとする信仰心の表れでなければならない。私に信仰心はないが、ノートル=ダム・ド・パリの正面に立った時に、それほどの感慨を抱くに至らなかったのはそのせいであった。それは私のイメージしていたゴシック大聖堂の塔のそれとも違っていたのである。

 


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