玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(9)

2015年05月13日 | ゴシック論
 第四編は第三編までに論じてきた内容の展開部というか、変奏部と言ってもいいような部分で、崇高と美についてさまざまなテーマが追求されている。
 私が最も興味を持ったのは「9.大きな容積の視覚的対象は何故に崇高か」から「13.視覚的対象に継起が及ぼす効果の説明」の部分である。そこでバークは概ね次のようなことを言っている。
「小さな物よりも容積の大きなものの方が、視覚に対して大きな刺激を与える。その刺激が苦に近づくほどに大きくなった時、崇高の概念が生じてくる。しかもその大きな容積は斉一的なもので満たされていなければならず、それが人為的無限を生み、偉大さを生む(この部分でバークは聴覚を対象に論じているが)。再び視覚のテーマに戻り、「同じ直線状に置かれた斉一的部分の継起的配列」は「順を追うて刺激ないし鼓動が繰り返され」るため「連続的な攪乱によって烈しい刺激を受ける結果」として「心の中に壮大ないし崇高な観念をもたらすまでになる」
 この部分を読んでいて私は、すぐさまモンス・デジデリオ(1593-1620)の壮大な廃墟を描いた作品を眼前に思い描くことになった。ほとんどデジデリオの作品についての文章と言ってもいいくらいだ。
 デジデリオの作品はどれも壮大な建築物を描いていて「容積の大きな物」であるし、多様な物が入り混じることのない「斉一性」を持っている。また、同じ柱や人柱、屋根などが繰り返し繰り返し描かれて「一直線状に置かれた斉一的部分の継起的配列」の条件も満たしている。
「連続的な攪乱」continued agitationという言葉こそほとんどデジデリオの作品のためにあるようなもので、それが眩暈のするような圧倒的無限感を生じさせる。それが人為的無限であることは言うまでもないことだ。
 そしてこれこそ大事なことであるが、デジデリオのような作品こそが“崇高”という概念にぴったりと当てはまるものなのである。

デジデリオ〈ヨナと怪魚〉


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