玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

鈴木創士『分身入門』(6)

2022年01月18日 | 読書ノート

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽が我々にもたらす快感、それも単なる快感ではなく、〝苦痛=快感〟と言った方が相応しいような、両義性を帯びた快感について、鈴木はややぎこちなくではあるが、うまく言い当てている。
 マゾッホが出てくるのは、彼らの曲にVenus in Fursがあるからで、マゾッホの主人公たちの「ひどい苦痛」が一面では快楽でもあるように、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音は、苦痛と快感において可逆的である。つまりは言葉の真の意味において倒錯的なのである。
 あの歪んだギターと調子の外れたヴィオラが、下手くそなドラムの上で執拗に同じ音を繰り返していくノイズ感溢れた曲に、普通なら苦痛を感じてもおかしくないのに、いつしかそれに快感を覚えるようになっていき、ついには中毒に到るという体験はヴェルヴェット・アンダーグラウンド以外にはあり得ないものではないだろうか。
 鈴木の言う「中心はいたるところにあって」「音の行方が不在」ということは、美術で言えばオールオーバーな表現に近いものがあって、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをプロデュースした、アンディ・ウォーホルの作品とはまったく違っている。ウォーホルの作品には繰り返しはふんだんにあるが、絵の輪郭は保たれているし、形も不在ということはない。
 むしろヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現は、ジャクソン・ポロックのオールオーバーな絵画に似ているかも知れない。それは輪郭も、中心も、形すら持たず、無限の反復の中に、苦痛と快楽の両義性が胚胎されているからと言うことができる。
 鈴木はなぜかヴェルヴェット・アンダーグラウンドを論じて、いつの間にか「分身」のことを忘れてしまっているように思われる。「分身」という言葉も使われなくなるし、「イマージュ」という概念にも触れることがなくなっていく。しかし、いいのではないか。忘れてしまってもいいのだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音を聴いて、いったい誰がまともな理性を保ちうるだろう。それこそヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、今も生きていることの証拠だろう。
 だから彼らの音を聴くということは、分析的にではなく体験的にしか語り得ないものとなる。鈴木は二編目の「ヴェルヴェット共同体」で、次のように聴く主体としての体験を語っている。これ以上のことを語ることはほとんど不可能に近い。

「もう一度言おう。共同体は共同体から切り離さねばならなかった。それはあまりにも切実で、切迫し、焦眉の急を告げていた。笑ってしまうが、外では、すべては今日のお天気のように上々である。共同体のなかで自分が、つまり主体の「現れ」が確認され確保されるのではない。その反対である。微に入り細をうがって管理され管理するかわりに、あるいはずっと下の方で霊的ノイズの波が押し寄せる自殺者の断崖から飛び降りるのをためらうようにして、あるいはでたらめに、めくら滅法に、主体は自分に対して、厳密にはどんな風にしてかはわからないにしても、別様にしか生きることのできない分としか言いようのない自分を与え、自分の知らない自分を再構築し、再建し、つくり直すことによって、一般的に、つまり共同体的に言えば、堕落することによって、共同体を共同体から切り離すのである」

 鈴木の言う「共同体」とは一体何か? それはまず、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが一つの主体的なグループであったこと、少なくともルー・リードとジョン・ケイルとのある主張を持った集合であったことを意味しているだろう。それを鈴木は「政治的」と言っているが、政治的メッセージを発していたわけでもない彼らを「政治的」と言うのは、あらゆる共同体が政治的なものだからである。
 そして、それは「共同体から切り離されねばならなかった」というわけである。つまり政治的共同体から離脱した共同体として実現されなければならなかったのであり、それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドにとっての命題であると同時に、彼らの音を聴くものにとっての命題でもあった。それはモーリス・ブランショの言う「明かしえぬ共同体」として実現され、そして消え去る運命にあったということなのだ。

この項おわり

 



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