玄文社主人の書斎

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(5)

2016年06月11日 | ラテン・アメリカ文学

 アルベルト・フジモリは大統領就任後の1992年4月6日、テレビで声明を発表し、議会、裁判所、憲法裁判所、国家司法評議会を閉鎖し、憲法を停止して、政令による政治を行うと宣言した。"自主クーデター"と呼ばれるものである。リョサはこの事態について絶望を込めて次のように書いている。

「こうして12年の独裁政権を経て、1980年にようやく回復されたペルーの民主主義体制が、わずか2年前に大統領選挙で当選し、しかも1990年7月28日の就任式では憲法と主権国家の遵守を誓った男によって、再び踏みにじられることになった。」

 政治の世界では政治家の誓いや約束など鴻毛より軽いのである。権力を握りさえすれば、過去の約束など守られる必要はない。政治の世界に信義など不要である。権力と暴力を使って体制を維持することだけが至上命令であって、自余は何の価値もない。
 安倍政権が国民に対する約束を破ってまで、消費税増税の再延期を決めたのも、アベノミクスの失敗を覆い隠して、直近の参院選に勝利し権力基盤を揺るぎないものにするためなのであって、国民のためを思っての"新しい判断"などでは決してない。
 アルベルト・フジモリは強権的な政治を推し進め、2000年には三選を禁ずる憲法解釈を強引に変えてでも三たび大統領選に出馬したが落選、その後軍による民間人殺害への関与などの人権侵害と汚職の罪で逮捕・収監されることになる。
 リョサが言っているのはこのことである。いかに父と娘は違う人間であるとはいえ、娘が「大統領になったら、父に恩赦を与える」とまで言っていたのだから、二人は一蓮托生なのである。
 リョサがケイコ・フジモリの当選を阻止するために何をやったのか知りたいところだが、多分スペインの地にありながら、ペルー国民や海外在住のペルー人に対して、「ケイコに投票するな」と呼び掛けるなどの行動は行ったのであろうと思われる。
 ところで、『水を得た魚』というのは極めて逆説的なタイトルではないか。スペイン語はまったく分からないが、原題はEL PEZ EN EL AGUAだから、"水の中の魚"くらいの意味で、直訳に近いだろう。
 まさかバルガス・リョサが、政治の世界において"水を得た魚"のように、存分に自らの能力を発揮したなどという意味を込めたはずはない。どう考えてもこのタイトルは、政治という自分にはふさわしくない世界に誤って足を踏み入れ、無駄な努力を強いられてしまった自分自身への皮肉を込めたものとしか思えない。
 メキシコの詩人、オクタビオ・パスは決選投票の2年前、リョサの政治参加に反対したという。パスは政治活動に足を踏み入れることの不都合について、「知的仕事とは両立不可能、独立心の喪失、職業政治家の操作、やがて訪れる挫折、人生の数年を浪費した徒労感」などを指摘したのであった。
 決選投票時にパスは、一転してビデオレターでリョサへの支持を表明することになるが、リョサはすぐに、オクタビオ・パスの最初の忠告が正しかったことを思い知らされる。リョサは書いている。

「だが、このわずか数カ月後には、オクタビオの最初の反応がいかに的を射たものであったか、そして、この第二の反応(リョサへの支持)がペルーの現実を前にいかにあっけなく崩れ落ちてしまうものか、思い知らされることになった。」

『水を得た魚』には、前途に大きな期待を抱いてペルーの空港からヨーロッパに向けて飛び立つ場面が二回ある。一つは文学への夢を胸に、ヨーロッパ留学へと出発する若き日の場面。もう一つは大統領選に敗れ、再び文学にすべてを賭ける決意でヨーロッパへ向かう場面である。
『水を得た魚』とは、本当はこの文学の世界にこそ生きる場所を求め、そこで自由に能力を開花させるリョサのことをこそ意味しているのである。そうでなければ救いがないではないか。

 


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