玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

木村榮一『謎ときガルシア=マルケス』(1)

2017年11月03日 | ラテン・アメリカ文学

 先日新潟市に行ったとき、市役所前の北書店を訪ねてこの本を見つけた。北書店は非常に個性的な品揃えで、行けば必ず読みたい本が見つかる。店舗は広くないが、京都の恵文社と同じように人文系の書籍を中心とした、ヘビーな読書人のための本を揃えている。
『謎ときガルシア=マルケス』の帯に「追悼」の二文字があるから、この本がガブリエル・ガルシア=マルケスが亡くなった直後に出版されたものであることが分かる。ガルシア=マルケスが亡くなった2014年には、いくつかの雑誌が追悼の特集を組んでいたが、私はそれらの雑誌を買っていない。
私は言うまでもなく『百年の孤独』が20世紀に書かれた小説の中で、最高の傑作であると思っていて、その他にもいろいろ読んではきたが、邦訳の作品の全部を読むに至っていない。ここ数年ガルシア=マルケスの作品からは遠ざかっているというのが実情である。
 一方、もう一人のノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサの作品については、邦訳されたすべての作品を読んできた。バルガス=リョサは大好きだが、しかしガルシア=マルケス以上だと評価しているわけではない。バルガス=リョサの作品で『百年の孤独』の価値に匹敵するものはないと断言できるが、ではなぜ私はバルガス=リョサの作品ばかりを読んできたのだろうか。
 理由はそんなに面倒なことではない。多分バルガス=リョサの作品の方がガルシア=マルケスのそれよりも読みやすいからだ。バルガス=リョサの初期の作品『緑の家』や『ラ・カテドラルでの対話』などは、その実験的な手法のために読みにくいと思われるかも知れないが、時間と場所をシャッフルしたような書き方に馴れてしまえば、それほど読みにくいものではない。バルガス=リョサの作品は古典的なリアリズムの方法で書かれていて、ラテン・アメリカのいわゆる魔術的リアリズムの要素はほとんどない。
 ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は魔術的リアリズムの代表のように言われていて、バルガス=リョサとは全然違う。しかし、バルガス=リョサとの一番の違いは一作一作ごとに方法も文体も(翻訳で読んでもそれは分かる)がらりと変えているところにあると思う。だからバルガス=リョサの場合は読み慣れた作家の作品としていつも安心して読んでいけるが、ガルシア=マルケスの場合は一作ごとにまったく違う作家と対面していくような体験を強いられるということがある。
 とくに『百年の孤独』と『族長の秋』の違いには驚かされた。ガルシア=マルケスが徹底して避けているのは自己模倣ということであって、二大傑作と呼べるだろう『百年の孤独』と『族長の秋』に似通った作品を他には書いていない。またこの二作を魔術的リアリズムの代表作と言ってもいいだろうが、他の作品は必ずしも魔術的リアリズムの方法によって書かれているわけでもない。たとえば中期の作品『コレラの時代の愛』と晩年の作品『わが悲しき娼婦たちの思い出』のどこに魔術的リアリズムがあるといえるだろうか。
 また私はバルガス=リョサの作品についてはこのブログにも書いてきたが、ガルシア=マルケスについてはまったく書いていない。『百年の孤独』と『族長の秋』については、それらがあまりにも偉大すぎて自分の考えに基づいて書くことができないのだ。一方バルガス=リョサについては、特に『水を得た魚』などを読むと、我々にも親しみやすい人物がそこにはいて、親しみを持って書くことができるからだ。
 バルガス=リョサとガルシア=マルケスの不仲については前にも書いたが、それがキューバのカストロによる言論弾圧事件をきっかけにしたものであるらしく、その時カストロ体制を批判したバルガス=リョサの考え方に賛意を表すことはできても、カストロ体制を擁護し続けたガルシア=マルケスの考え方に賛成することはできない。それは作品の評価とは別次元の話だということは分かるが、そのことも私をガルシア=マルケスから遠ざけた理由の一つとなっている。

『謎ときガルシア=マルケス』の話に戻る。著者の木村榮一はガルシア=マルケスの作品だけでなく、多くのラテン・アメリカ作家の作品も訳していて、日本におけるラテン・アメリカ文学ブームに大きな貢献をした人の一人である。
 木村榮一の本は他にも『ラテン・アメリカ十大小説』などを読んできたが、この人ちょっと気のいいおじさん的なところがあり、作品評価におおざっぱなところがある。この本はどうなのだろう。これを読んで私は再びガルシア=マルケスの世界に戻ることができるだろうか。

木村榮一『謎ときガルシア=マルケス』(2014、新潮選書)

 

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ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』(3)

2017年11月01日 | 読書ノート

 第1節でスローパー博士の家族のことが紹介されるが、その夫人は「教養があって気立てもよく、優雅で上品な女性だった」とされ、第一子の男の子は「並はずれて将来が有望だ」と博士が期待していたにも拘わらず、三歳で病没したと報告される。
 さらに二年後に女の子が生まれるが、産後の肥立ちが悪くスローパー夫人も亡くなってしまう。娘のキャサリンは丈夫に育つが、年頃になった彼女は次のように紹介される。

 キャサリンは発育のよい、健康な子供だったが、母親の美しさはまったく受け継いでいなかった。醜いというわけではない。器量があまりよくなく、おとなしくてさえない顔つきというだけのことだった。

 スローパー博士は「キャサリンに恋をする青年がいるはずはない」とまで言っているし、「うちの娘なら、しとやかで美しく、気品と知性があって当然じゃないか。あの子の母親は、生きていた頃には最高に魅力的な女性だったし、父親の自分だって、これでなかなか立派なものなんだからな。それなのに、二人の間にできた子はあまりに平凡だ」と考えている。
 主人公に対するこのような酷い設定自体、ヘンリー・ジェイムズのサディズム的な心性を窺わせるに十分である。そして娘に対するスローパー博士の見解も、作者のサディズムを反映しているのである。
 4節で早くもハンサムなモリス・タウンゼントがキャサリンの前に登場するが、読者はキャサリンのような凡庸な娘に本気の求婚者が現れるわけがないと思っているから、スローパー博士が見抜くよりも先に、〝この男は財産目当てにキャサリンに求婚するのだ〟と見抜いてしまう。最初からラブロマンスは期待できないのである。
 だからこの後、スローパー博士がモリスを蛇蝎のように嫌い、娘との結婚に頑強に反対し続けても、読者は博士の頑固で時には尊大とさえ思える姿勢に抵抗できない。読者もまた作者のサディズムに荷担することになってしまうのだ。
 だが本当のサディズムはそんなところにあるのではない。本当のサディズムは父であるスローパー博士の娘キャサリンに対するものの言い方にある。たとえば……。

「婚約は喜ばしい影響を一つ、お前に及ぼすことになるだろうな。それは、わたしの死ぬのが待ち遠しくてたまらなくなることだよ」

 娘にこのような言い方をする父親というものを想像できるだろうか。スローパー博士は、キャサリンによれば「弱いところが一つもない」男であり、その判断力は完全無欠である。
 21節はスローパー博士の恐ろしさをよく描き出している。博士は娘の結婚に反対することを「幾何学上の命題」とまで言ってのけるし、決定的なのは次のような言葉となる。

「(キャサリンの父に対する)崇拝の念がどこで終わるか、――そこを見きわめることに興味を感じるのさ」

そして、

「この感情がまじり合う――その交錯の具合がとても変わっているんだ。何か新しい第三の要素が生まれるのではないか、とそれを見たいと思ってね。いったいどうなるかと、わくわくしながら待っているところさ、キャサリンがこんな気持を味わわせてくれるとは思いもしなかった。娘にとても感謝しているよ」

 父親の言うことではない。そしてそれは、ヘンリー・ジェイムズ自身の登場人物に対する興味でもある。心理小説はある冷酷さをもっていなければ書き得ない。スローパー博士は作者ヘンリー・ジェイムズの冷酷さを共有している。
 そして本当のサディズムはそこにこそある。患者に対する外科医のような興味の持ち方(ボードレールがそんなことをどこかで言っている)がそれである。心理分析は鋭利な刃物のようなものであり、それによって対象の表皮を剥ぎ取り、隠されたものを顕わにする。そこにサディズムの悦びが達成されるだろう。
 フランスの心理小説、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』は、清純な乙女を道徳的に堕落させていく物語であるが、必ずしも娘を罪へとおとしめることにサディズムがあるのではない。むしろ作者が登場人物への同情など一切もたずに、堕落の過程を心理戦として描いていくという方法にこそ本当のサディズムがある。
 ところで『ワシントン・スクエア』は、後期の『使者たち』と較べてはるかに読みやすい小説である。『使者たち』や『鳩の翼』では、登場人物の会話の後にその何倍もの分析的記述が続くのであるが、『ワシントン・スクエア』では会話の比重がずっと高くて、分析的記述に延々と付き合う労苦がない。
 しかし、ヘンリー・ジェイムズの真骨頂は後期の三部作にこそあると思うので、私は未読の『黄金の盃』を読まなければならない。

 

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