尊敬する友人が、中国人と三国志に関する会話で「それは演義か正史か」と問われて刮目したと話していた。
自分の三国時代の知識は三国志演義、それも吉川英二、柴田錬三郎、北方謙三各氏が意訳・再構成した三国志で、正史も魏志中の倭人伝に限っており、魏志・呉志・蜀志には目を通したことも無いが、学者でもない限り大方の人もそうではないだろうか。
膨大で難解な正史よりも、テーマを絞って平易な語りである演義の方が面白く、それを読むことで「なんとなく解った気分にさせてくれる。中国の三大演義は、三国志・水滸伝・楊家将とされ、毛沢東も楊家将演義を愛読し、折に触れて「楊不敗(主人公楊業の愛称)」を引用したとされる。
演義は、文盲でも楽しめるように講談や音曲で流布されるうちに多くの脚色が加えられて現在の姿になっているとされるが、日本でも次郎長外伝や義士外伝のように事実とは懸け離れた虚構が独り歩きしている。
チェコの作家ミラン・クンデラ氏は「一国の人々を抹殺するための最初の段階はその記憶を失わせることである」と書いているそうであるが、現在の日本の混乱にも当てはまるように感じられる。
欧米の植民地政策を反面教師として日本が戦った大東亜戦争に関して、占領軍は「太平洋戦争」と改称させて東南アジアに存在していた欧米植民地の解放という側面に目が向かないように企図し、さらに東京裁判では遡及的に編み出した「平和に対する罪」をa項に据えて断罪し、日本人のアイデンティティを改廃させることに成功した。先人の行為を悪と信じ込まされて牙を抜かれた我々は、今や「占領政策」と「東京裁判史観」を源流とする「平和憲法演義」という虚構の世界に棲んでいるように思える。
自分の育った時代には、未だ大東亜戦争を戦った人や陸士・海兵に青年を送り込んだ教師が日教組の主張とは一線を画した「歴史の見方」を教えてくれたので、平和憲法演義も懐疑的に見ることができるが、今にして正さねば平和憲法演義は誤謬の無い正史となって、聖書・コーランの位置に飾られるだろう。
日本人のアイデンティティを取り戻すためにも憲法を改正することが急務であるが、市井の我々でも禍々しい「A級戦犯」との呼称を「a項戦犯」と改めることくらいはできそうな気がする。