もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

男と女

2024年02月23日 | 芸能

 ブログ中断中に芸人・松本人志さんとサッカー・伊東純也両氏の性加害問題がある。本日は「男尊女卑の石器人」とのお叱りを受けるであろうことは覚悟している。

 松本人志氏は全ての芸能活動を休止し、伊東純也選手は日本代表から去らざるを得なかった。
 男女間の秘め事であるので真相は当然に藪の中であるが、既にメディアでは週刊誌報道が真実として一人歩きし、当初「松本人志さん」とされていたものが昨今では呼び捨てにまで変化している。
 両氏の対応は、松本氏が名誉棄損で民事訴訟を起こしたのみであるのに対し、伊東氏は損害賠償の民事訴訟に加え偽証容疑で刑事告発している。
 最終的には司法が判断するもので我々はその結果を待つ以外にないが、自分としては男女ともに「ドッチもドッチ」であるように思っている。
 二つのケースともに報じられた限りでは暴力的な手段を伴うものではなく、女性が強く断れば一線を越えることは無かったかのように思える。宇崎竜童氏「港のヨウコ横浜・横須賀」を借りれば、「・・・初心なネンネじゃあるまいし・・・」的に、20歳過ぎれば「そのような誘いには、何らかの危険が付き物」とは当然に予知していたであろうし、それを置いてでも場に出向いた・居合わせたには何らかの期待や打算が有ったと思われても仕方がない様に思えるし、そのような状況を多くの男は「OKサイン」と受け取るだろう。
 更には、申し立てまでに、ある程度の時間が経過しているのも不可解で、訴訟は他者や弁護士の入れ知恵によるものかとの疑念も捨てきれない。

 女性の申し立てを真実と看做す現在の風潮は、女性からの一方的な痴漢被害申し立てによって多くの冤罪者を出した時期に似通っているように思える。
 そんな中にあって、伊東選手の所属するフランス1部のスタッド・ランスが彼を先発出場させたことに対して「推定無罪の原則に依っている」とし、広島東洋カープの松田オーナーが「松本さんをCMに起用したい」とそれぞれ述べているのは、ヒステリックなメディアと世論に嫌気がさしたものであろうし、多くの似非女権支持者の心底にも自分と同じ気持ちがいくらかは有るのではと思っている。


”傘がない”考

2023年09月12日 | 芸能

 井上陽水氏の代表曲を別の歌手がカヴァーする番組で”傘がない”を聴いた。

 ”傘がない”は、1972(昭和47)年に、陽水氏2枚目のシングルとして発表されたもので、当初は注目されなかったが現在では”氷の世界””少年時代”と並んで氏の代表曲となっている。
 テーマは、「指導的な階層(大人)が警鐘を鳴らしている事象よりも、自分では恋人に会いに行かねばならないのに「傘がない」ということの方が重大事である」というものである。
1972(昭和47)年は、
・1月 グアム島で横井庄一氏発見・帰国
・2月 札幌冬季五輪開催、浅間山荘事件
・3月 奈良県明日香村の高松塚古墳で極彩色壁画発見
・6月 佐藤栄作首相退陣
・7月 太陽にほえろ放映開始
・8月 カシオが世界初の電卓発売
・9月 田中角栄首相訪中、日中国交正常化(11月ランラン、カンカン来園)
 となっているように、既に学生を中心とした左派活動は「頑張った割には社会を何一つ変えることができなかった」という虚無感から「ノンポリ層」を生み出していた。
 そんな時代の”傘がない”であることから、自分は陽水氏の自嘲なのだろうかと思っていたが、次第に年齢を重ねることによって「自嘲よりも指導層に対する皮肉なのか」と考えるようになった。
 陽水氏も、一定の影響力を持つようになった中年期にはステージで”傘がない”を封印していたとされているので、「自分で自分を皮肉る」ことに抵抗感を持ったものかも知れないし、陽水氏の対極に位置する松山千春氏が「傘がなければ傘を買え」と檄を飛ばしたのも頷ける思いがする。

 陽水氏は「別にそんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで・・・」と謙虚に語っているとされるが、社会に対する貢献度も低下した今の自分に”傘がない”は、「上滑りな思考で駄文を弄する傍らで現実には頭上の蠅も追えない存在であることを自覚せよ」と諭しているようにも聞き取れる。
 とあれこれ考えると気が滅入って自己嫌悪に陥るばかりであるので、今後は氏の込めたメッセージは置いて歌唱を楽しむだけで平安を保つことにしよう。


あゝモンテンルパの夜は更けて

2023年07月25日 | 芸能

 モンテンルパ収容者の帰還70周年記念の会が行われたことが報じられた。

 小学校低学年の頃、ラジオから流れる渡邊はま子さん(1910(明治43)-1999(平成11)年)の『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聴き、子供心にも感じるところがあったのだろうか、今も全体のメロディーと1,,2小節の歌詞はそらんじている。
 報道を読んで、あれから70年も経ったのかと思うと同時に、既に帰還者の全員が亡くなられた今も「モンテンルパの会」が続いているのを奇跡と感じた。
 改めてWikipediaの解説を要約・引用すると
 《1952(昭和27)年1月、渡邊はま子さんは、フィリピンのモンテンルパ市のニュー・ビリビッド刑務所に多数のBC項戦犯訴追者が収監され、既に14人が処刑されたことを知った。渡邊さんは、「戦後7年も経つのに」との思いから、銀座の鳩居堂から香を同刑務所宛に送ったところ、6月になって渡邊さんに楽譜と短い手紙が入った一通の封書が届けられた。それが、「モンテンルパの歌(原題):代田銀太郎作詞、伊藤正康作曲」であった。渡邊さんは、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込み、題名は「あゝモンテンルパの夜は更けて」と改められて同年9月に発売され、20万枚のヒット曲となった。
 同年12月、渡辺さんはニュー・ビリビッド刑務所を慰問されたが、国交が無いフィリピン政府に戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。
 その後、この歌のヒットや渡邊はま子さんを始めとする努力がフィリピン政府を動かして、1953(昭和28)年7月、フィリピンのキリノ大統領による独立記念日特赦によって、収監者108名全員の日本への帰艦が実現した》となっている。

 驚くべきは、渡邊さんが日本人の収容を知った9か月後に楽曲発売、11か月後に慰問実現、1年半後には恩赦・帰還が実現したというスピードである。
 A項戦犯の東京裁判は、既に1948(昭和23)には結審・判決・執行が完了していたこともあって、当事者や親族以外は戦犯・収容者に対して目が向いていなっかであろうし、メディアも同年(1952(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約のほうに関心が移っていたものと思える。
 この渡邊さんの活動は、モンテンルパの会以外では語られることも少なくなっているが、スピード感と熱情は広く語り継がれるべきものではないだろうか。
 渡邊さんが歌手活動の功績によって1973(昭和48)年に紫綬褒章を受章された後、1981(昭和56)には勲四等宝冠章を受勲されているのは、この行動によるものであったのではないだろうか。


別世界を考える

2023年05月17日 | 芸能

 故ジャニー喜多川氏による男色被害が注目されているが、以下は古生代生き残りの戯言である。

 喜多川氏の存命中には報じられることも無かったが、喜多川氏の死去やジャニーズ事務所の影響力減少もあってであろうか被害を訴える人が#Me-Too的に続々と現れているようである。
 自分にとって芸能界とは虚構・虚業の世界で、そこに棲む人々の倫理観は自分の住む世界とは懸け離れた別世界と思って冷ややかに眺めているが、LGBT法案審議中という世情もあってテレビ・新聞でも大きく取り上げられている。
 歌舞音曲を生業とする人々を別世界の住人と考えるのは自分だけではなく、明治期以前にあっては「河原乞食」と総称されて商売往来や人別の枠外とされ、自分の育った戦後にあっても「銀幕のスター」と呼ばれたように、スクリーン上やレコード上のイメージが全て・常人の計り知れない世界で高倉健さんや吉永小百合さんは「ウンコもシッコもなさらない」と受け取られていた。現在ではメディアの多様化によってゴシップ記事やゴシップ映像が出回る様になり、芸能人は一気に常人のレベルに引き下ろされてしまったが、それには一般人の倫理観に支配された芸能レポータの存在が大きいと思っている。
 別世界や雲上人を格差の代表と眺めるのは世界的な現象で、イギリス国王の戴冠式にも古式を廃止・簡略化した市民目線が随所に取り込まれていたとされている。日本でも、不敬罪・爵位・位階勲等・貴族院の廃止はもとより、一般社会でも修験の場として一般人の立ち入りが禁止されていた霊場・霊山の解放、男性限定の私的クラブ廃止、大相撲土俵の女人禁制見直し、・・・など枚挙にいとまがない。
 しかしながら、それらによって格差が亡くなったかと云えば、経済格差は拡大し、経済格差は学歴格差まで生み出しているし、欧米では非公式の特権サロンが復活して表社会とは隔絶した場所・一団が政治を壟断していると「Qアノン」は喧伝している。そんな裏事情は置いても、世の中の全てを市民感覚に置き換えることで、別世界住人や雲上人が守り通してきた先人の遺産や有職故実までも失われてしまうのではないだろうか。

 浅田美代子さんのキャッチフレーズは「隣のミヨちゃん」であったと記憶している。最後の別世界である芸能界でも「一般人と区別が無いこと」、「一般人のアナタも芸能界に進める」が主流となったが、昭和期に生きたジャニー氏にあってはそんな変化は認識されていなかった、或いは考えたくも無かったのではないだろうかと密かに・ささやかな同情を禁じ得ない。


難聴哀歌

2023年04月16日 | 芸能

 定期的に集まっている高校クラス会のマドンナから、所属する合唱会の定期演奏会に誘われた。

 自分は難聴で、それも30代後半から常時耳の中でディーゼルエンジンやガスタービンエンジンが回っているために聴力は低下しており、特に一般人の可聴域とされる20~2万Hzのうち2000~5000Hzにおいては極めて低下している。自衛隊在職時の聴力検査でも聴力不足と診断されていたものの治療法も無いために放置していたが、加齢による聴力低下も加わってしまった。
 耳鳴りの原因については「多分これだろう」というものはあるものの、仄聞するところでは難聴の原因を特定することはできないとされているらしい。
 現在、自衛艦の機関室にはヘッドセット型のイヤーマフが常備されて機関員には騒音下での装着が義務付けられているが、かってはトイレットペーパを丸めて耳の穴に詰めての自己防御しかなかった。加えて、緊急時など一時的に機関室に飛び込む機関士などにはその余裕もなく、無防備で過ごすのが一般的であった。
 自分が思い当たるのも、このような状況下での出来事に由来しているので職業病や公務災害に近いものと思っているが、軍医殿からも因果関係を認めることはできないだろうと一蹴されて今日に至っている。
 そのために、耳鳴りに勝る大音量が常であるミュージシャンのコンサートには何とか付いて行けるものの、ピアニッシモ表現が多いシンフォニーについては耳に聞こえてこない部分が多いし、か細いピッコロの独奏になると全く認識できない。

 このような状態ではと、冒頭のお誘いを泣く泣く・かつ丁重にお断りしてマドンナとの邂逅もあきらめざるを得なかったが、実は、難聴以上にメロディーからイメージを膨らませるという能力・情操が全くないことの方が大きい。
 音楽は、社会生活の中で他人とのコミュニケーションを維持するための必須事項ではないものの幾ばくかの知識は必要であるために雑学として持ってはいるものの、これは「音楽」ではなく「音学」に過ぎないと思っている。かっても書いたことであるが、宴席で音楽を熱く語る艦長に、「音楽なんぞ所詮、原始人のコミュニケーションツールに過ぎない」と云い放って「お前には音楽が判っとらん」と酷評されたことがある。
 後天的な難聴を予防することに加え、「生活に潤いを与えてくれる」とされる音楽に対しては、演奏の天賦の才は無理としても聴くことができる情操は養っておくことが必要であると、今更に反省している。