山内昌之氏(武蔵野大特任教授)の「家康の責任感とコロナ禍」のエッセイを読んだ。
エッセイは、「コロナ禍で生活のルールや日常性が破壊された社会の再建」では徳川家康型の指揮官が相応しく、「信長や秀吉のように指揮官が優れていても、その意を体して動く部下がシステムとして機能しないと危機の解決は一時的なものに終わる」と続いていた。
昨日のブログで、戦時の宰相としてはトップダウンの、平時の宰相には調整型の指揮官が相応しいと書いたように、概ね教授のエッセイに首肯するものであるが、2・3の点で釈然としないところがある。
家康は一貫して調整型の指揮官ではなく、明らかに「調整型指揮官」に変身するのは大坂の陣以降であり、それ以前の乱世にあっては酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政という徳川四天王を自在に操るトップダウン型の指揮に徹している。信長の命で長子の信康を自害させ、三方ヶ原では信玄に打ちのめされ、織田家の救済との名分を掲げて小牧・長久手で秀吉と戦い、等々については四天王の反対など一顧だにしていない。おそらく家康は、群雄が割拠する戦国期にあって施策をタイムリーに行うためには強権的な手法が最も適していることを知っており、豊臣家という最大の敵対勢力を駆逐し得た後では官僚組織の合議に施政を委任した方が効率的と判断したものであろう。しかしながら、加藤・福島を始めとする豊臣恩顧の外様大名の改易・取潰しには強権を発揮することを厭わなかったように、官僚政治にあっても譲れぬ一線は保持していたように感じる。
一方、信長が楽市楽座や兵農分離の経済政策を推進し得た影には優秀な官僚組織を持っていたことは推測できるし、秀吉についても、最晩年に五奉行という官僚組織を作ったものの未だ権力基盤が盤石でなかったために、五奉行の上に既得権益死守の五大老を置かなければならなかったことで官僚組織が有効に機能できなかったものであり、信長・秀吉を戦時のトップダウンオンリーと一括りにするのは如何なものであろうかとも思う。
戦時のトップダウン指揮と平時の調整型指揮を同一人物が成し得て、その何れにも成功することは歴史上にもあまり見当たらないように思える。家康が開府後は駿府に隠居したことを観れば、自分が平時の指揮官としては相応しくないことを知っていたのではないだろうか。ハンニバルが追われ、ナポレオンが配流となり、チャーチルは解任され、マルコスは亡命し、サダム・フセインは捕らえられ、とトップダウン指揮官の多くは不遇な晩年・最期を余儀なくされている。「君子豹変」と云われるように、戦時にはトップダウンで社会を安定させ、安定後には調整型指揮に豹変するするのが指揮官の理想であろうが、本性は簡単には変えられるべくもないことから、功成り名を遂げた人間にとって「君子」は永遠の課題であるように思える。
前日の繰り返しになるが、現在のコロナ戦争下にあって「トップダウン指揮ができる」強い指導者が日本に見当たらないのが残念である。