もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

9月入学論に思う

2020年04月30日 | 社会・政治問題

 中国ウィルス禍の現下、9月入学論が再燃した。

 欧米の新学期に合わせる方が留学等に便利であるという主張で、これまでも起きては消える経過をたどっていたが中国ウィルス禍で新学期が有名無実・学校は開店休業の状態から総理も国会で「前広に検討する」と答弁するほど現実味を帯びてきた。桜の開花と新学期を合わせ重ねることは、古来からの風習と思っていたが、そうでもないことを知った。江戸時代までは寺子屋、藩校、私塾の入学時期は随時で、明治維新後には欧米に倣って9月入学・始業が一般的であったとされている。1886(明治19)年に国の会計年度の始期が4月とされたことから、陸軍士官学校・海軍兵学校が4月入学を始めたため、優秀な生徒が軍学校に流れることに危機感を持った高等師範学校が文部省の指示を受けて追随し、順次旧制中学校や小学校に4月入学は波及したが、帝国大学以下の全学校が4月始業・入学となったのは1921(大正10)年とされている。4月始業の慣例は既に100年も経過しているので最早歳時記・文化とも捉えられるために反対意見も根強く、新学期を国の会計年度と符合させることが便利であるという文科省の意見も妥当なものに思われる。今回の9月始業論の再燃は、修学期間が2か月近く(更に増える?)短縮されるために、カリキュラムを終了できないままに進級したり卒業単位が取れずに留年を余儀なくされる児童・生徒・学生が出ることの懸念からであると考えるが、懸念するのは反対意見に、両制度の適否・正否の比較ではない「慎重に議論して」や「現場の意見を聴取して」等の紋切型の消極的主張と、教育改革では他にやるべきことがあるというすり替え主張が多いことである。制度改革には混乱と受益者の移動がつきものであり、甲論乙駁の問題については「やるかやらないか」の政治判断・総理の決断にかかっていると思う。多くの懸念にも拘らず公社の民営化や年金機構改革は曲がりなりにも成功している。小泉元総理は反対者を抵抗勢力と呼んで喝采を浴び、50年以上も「慎重な議論」を重ねている憲法論議は宙に浮いている。空虚な観念論に終始する「議して決せず」状態は、問題解決を先送りするだけであり、改革に伴う一時的な混乱を過大に評価することだけは避けてもらいたいと願うものである。

 各国の学期の始期を知らなかったので調べてみた。1月(シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド)、3月(韓国)、5月(タイ)、6月(フィリピン)、9月(アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ベルギー、トルコ、モンゴル、ロシア、中国)とするネット記事を見つけた。やはり、9月始業が趨勢であるように感じられた。


再び民度を思う

2020年04月29日 | 社会・政治問題

 先に民度について書いたが、日本と日本人の民度について考えた。

 中国ウィルス禍に際して、多くの事象が報じられている。曰く、「パチンコ店の一部が休業要請に応じない」、「開業しているパチンコ店には従前以上の客がある」、「医療従事者への誹謗・嫌がらせが多発」、「岡山県が県境の山陽自動車道下り線のパーキングエリアで実施予定だった任意の検温が脅迫で中止」、「公園でラジオ体操する老人集団」等々、枚挙にいとまがない。平時であれば、ギャンブル依存症などで近親者には負担であっても社会に対しては平均的な民衆が、特定の事象に対して私欲・我意をむき出しに共有した場合には、如何に社会不安を増大させるのかが示されたものと思う。民度とは『特定の地域・国に住む人々の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指す』とされるが、定量的に測られたものでは無く、相手を揶揄(時に罵倒)したり自讃する場合に使用されていた。本ブログでも、強硬・執拗な対日批判を繰り返す韓国や、知的財産の譲渡を強要したり海賊使用する中国に対して使用していたが、ここに来て『日本の民度も思った程ではないのでは?』と感じている。特に、岡山県境での来県者の任意検温に対して「職員に危害を加える」という脅迫や批判については、その意図が全く想像・理解できない。県の計画した任意検温で、誰が「人に危害を加える」ほどの不利益を被るのだろうか。脅迫の主は入境を計画している県外者だろうか、はたまた検温を恐れて来県者の減少を危惧する県人であろうか、まさか「何でも反対する立憲民主党を真似た愉快犯」ではないだろうが。

 文芸評論家というより文明批評家の感がある小林秀雄(1902(明治35)-1983(昭和58)年)氏は、『僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩してますか。例えば論語以上の知恵が現代人にありますか』、『青年(青年以外にも当てはまると思うが)にとってはあらゆる思想が、単に己の行動の口実にすぎぬ』、『実生活を離れて思想はない。しかし、実生活に犠牲を要求しないような思想は動物の頭に宿っているだけである』との言葉を残している。東洋的であるかもしれないが、この言葉こそ民度の深淵を解き明かし、民度の度量衡として相応しいのではないだろうか。高い知的水準にある人の目を疑うような言動、平均的な市民が我意を剥き出しにする言動、突然の中国ウィルス禍にあって露わになった一部日本人の本性を見る限り、”論語詠みの論語知らずが多数棲息しているよう感じる出来事である。また、小林氏は『自然を征服するとは、自然に上手に負けること』との含蓄も述べている。


ラサール石井氏と大阪府知事

2020年04月27日 | 野党

 ラサール石井氏と大阪府知事のミニバトルが報じられた。

 顛末をなぞると、府知事が自主要請下にも営業を続けるパチンコ店名を公表したことに対してラサール氏が「ここのパチンコ店はやってマッセと宣伝するようなもの」とコメントし、府知事は「熟慮の結果」と応酬したものである。素人観であるが、このことは情報の2面性・多面性を示す好例と思う。フグ食が受け継がれているのも、フグ食禁止令に「フグ毒の危険性を知ってフグ食を止める人」と同じくらい「御上が禁止しても食べたい人がいるほど美味しいものかとフグ食を始める人」がいたからであろう。情報の活用が全ての投資社会にも「他人の行く 裏に道あり 花の山」との格言があると聞いている。慰安婦報道が世紀の大誤報と呼ばれた朝日新聞でも、購読者から壊滅的な審判・報復を受けるであろうとの世評に反して定期購読者の減少は数パーセントにとどまったため、現在でも「アメリカの中国コロナ感染拡大は痛快」と発信する記者を重用する等、筆禍体質は変わっていない。サリンテロを起こしたオーム真理教についても、教団の狂気と危険性を伝える情報は満ち溢れているにも拘らず、後継団体は存続し続ける以上に新たな信者を獲得している。また、憲法改正についても、改憲論者は「7割が賛成」とするが、護憲派は「3割もの人が反対」と情報を都合よく解釈・利用することが常態化している。以上の例に見られるように、情報を受ける側の反応は専門家でも見極め困難なのであろうか、政府筋や高官の情報として事前に施策の大要や見通しが伝えられることがあるが、世論の動向を見るための観測気球と呼ばれ、反対の空気が強いと感じられたら大臣・総理が公式に噂を否定して方向性を変えることが多い。

 情報の多面性ということから今回のミニバトルを眺めれば、府知事の真意は何であれ、受け手側には「応じる多数の人」がいる反面に「情報を逆に利用する少数の人」が出現するのは仕方のないところである。国民の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式(遵法・道義)などの成熟度合を指す民度という言葉があり、石原信太郎元都知事が、中国・韓国を批判する際に使用することを常とした。少数であるとは云え、パチンコに出かける人、紅灯の巷を徘徊する人、旅行する人が散見される日本の民度、高いと観るべきか、低いと観るべきか。キング・カズの言葉を借りるまでもなく、今こそ国民が試されているのは間違いのないところであろう。


新居浜市立小学校長の犯罪

2020年04月26日 | 社会・政治問題

 中国ウイルスの感染予防として、愛媛県新居浜市立小学校が長距離トラック運転手の子どもの登校を拒否していたことが報じられた。

 顛末は、新学期開始前に市の教育員会が市内全児童の家庭に「家族や児童が感染拡大地域を訪れたか否か」を問うアンケートを実施し、業務のために該当地域を行動したと回答したトラック運転手の家庭に対して校長が児童の自宅待機を求めたものである。アンケートは、学校がクラスターとなることを防ぐための参考として行ったとすれば許容できると思うものの、校長が感染予防の手段として短絡的に1部児童の登校拒否に走ったことは、児童教育という目的を忘れた所業と云える。感染防止は教育の完遂という目的を達成するための手段の一つでしかなく、不登校者に登校を促す・授業中に私語をさせない・・・等々のうちの一つにしか過ぎない。更に中国ウィルス禍の現状は、差別の排除、任務に挺身する人への連帯、国民の義務等を考え・教育するための教材を現在進行形で提示するもので、人格形成・陶冶の好機と捉えるのが教育者の採るべき道ではないだろうか。昭和40年代に道徳教育の導入に反対する日教組は、「教員は人格者である必要は無く教育労働者である」と定義したが、今回の校長の思考・行動を見る限り教育の本分と目的を見失っている功利的労働者の感が深く、先生と呼べる識見など微塵も感じられない。新居浜市教育委員会の高橋教育長は、校長を断罪することなく「教育委員会と学校との(情報?)共有が掛けていた」との意味不明の言を付して謝罪したことから見て、教育委員会と校長の思惑は同根に基づくでは?、との疑念も捨てきれない。

 昭和55年に艦を降りて静岡市に転勤した。長女の幼稚園転園(年長組)に際し、転園先である第一光幼稚園のオミ(漢字表記は失念)先生が「制服や体操服は前の幼稚園の物で結構です。園児には良く言い聞かせますから」と云ってくれた。その後、周囲とはかけ離れた制服のベレー帽を引っ張られた程度のことはあったらしいが、5歳児の拙い言葉の端々は「オミ先生」で溢れ、長じて幼稚園の保育士になったのもオミ先生の人柄が投影しているのかも知れない。今回登校を拒否された児童には新1年生も含まれているが、幼児期と雖もその経験と疎外感が人格形成に大きく影響することも考えられる。報道では、親の職業に起因する差別とされているが、教育の目的を忘れた教員を引き続き教育者として処遇すべきだろうか疑問を感じる。またぞろ校長は個人情報保護の盾に隠れるのであろうが、個人情報保護法を悪人の隠れ蓑にしないためにも”低素質校長が犯した犯罪”と捉えて厳しく処分すべきと思う。


三陸クジラに期待~七福神

2020年04月25日 | 歴史

 三陸沖で捕れたミンククジラの販売が好況であることが報じられた。

 IWCからの脱退によって可能となった商業捕鯨は4月から始まったが、操業開始当初は鯨食の減少などから需要・販売に悲観的な見方が強かった。報道によれば、商業捕鯨では鯨肉の味と鮮度を保つ血抜きなどの作業が船上で行われるために、調査捕鯨時の鯨肉と比べ遥かに美味しくて新鮮な鯨肉が提供されているようである。調査捕鯨時にあっても近所のスーパーに鯨肉が並ぶことはめったになかったために遠くまで出かけて入手していたが、中国コロナのために其れも叶わぬ状況である。報道を見て「鯨肉通販  宮城県」と検索したがヒットせず、既存の通販サイトは所在地などから調査捕鯨時の貯蔵品ではないかとの疑心に駆られており、国内で流通する鯨肉が概ね商業捕鯨肉に置き換わったと推測できるまで、若しくは外出自粛が解除されるまで三陸クジラの賞味を辛抱することにした。自然保護論者は鯨食を「羅刹の所業」となじるが、人間が食物連鎖の頂点である限り致し方のないところと思う。しかしながら、この論を推し進めることはウィルスの宿主である野生動物食のために武漢海鮮市場を必要とした中国擁護ともなりかねないので当分黙っていることにしよう。筆(キーボード)に任せて鯨食を「羅刹の所業」と書いたが、「羅刹」の正体を知らないことに気付いたので勉強した。以下は、コトバンクに記載されている各種辞典を自分なりに統合編集したものであり、読まれる方は眉唾をお願いする。

 羅刹は、サンスクリットのラークシャサを語源とし、インド神話やインド民間信仰に現れる悪鬼で、通力によって姿を変え人を魅惑し人の血肉を食うという。水を棲み処として、地を疾く走り、空を飛び、闇夜に最強の力を発揮し夜明けとともに力を失うといわれ、男は醜悪で女は極めて美麗、のちに転じて仏教の守護神(羅刹天・羅刹女)となった。羅刹天は、日天・月天(がってん)とともに地上界の上下と四方(東西南北)・四維(南東・南西・北西・北東)の8方位の10方を守護する12天の一つとなった。像は神王形で、甲冑をつけ、刀を持ち、白獅子(しろじし)に乗っており、地獄の獄卒も兼業しているらしい。ちなみに12天(カッコ内は守護又は配置の方向)とは、帝釈天(東)・火天(南東)・閻魔天(南)・羅刹天(南西)・水天(西)・風天(北西)・毘沙門天(北)・伊舎那(いしゃな)天(北東)・梵天(上)・地天(下)・日天・月天である。仏教では、天界を守護する四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)とともに地上界を守護する12天は重要な存在であり、神話では悪鬼とされる羅刹天も敬うべき存在である。日本では12天の中の毘沙門天が七福神にまで昇格しているが、出自が災いしてか羅刹天は悪像のままに留め置かれており、不当(?)に差別されているかのようである。、