令和元年の参院選、北海道遊説中の安倍元総理の街頭演説を妨害したとして道警から排除された男女の控訴審判決が報じられたが、隔靴掻痒の感がある。
原告の男女は「排除は言論・表現の自由の侵害」と北海道(道警)に賠償を求めていたが、高裁は、女は「妨害の程度が低く道警の排除は違法で1審の55万円賠償命令を支持」、男は「周囲の反感からの野次男保護にかなう行為で適法・請求棄却」と報じられている。
素人観では、「野次そのものは言論・表現の自由であり保護されるが、周囲から危害を加えられる程度であれば違法」と裁判所が判断したものと受け止めている。
では、安倍元総理側が「野次によって言論・表現の自由が損なわれた」と訴えた場合の判断はどうなるのであろうかと興味が湧く。
現在の民事訴訟法では、訴えが無い限り司法が判断することは無いので、今回の裁判でも安倍元総理側の損害程度については判断の外に置かれているように思えるが、もし、大岡越前が判断するならば、「男女の自由は認めるが安倍氏の自由を損なっていることを相殺して痛み分け」とするのではないだろうか。
今、権利を声高に叫ぶ人々に共通しているのは「自分の権利を守るためには他人の権利に斟酌しない」ことであるように思えるとともに、それに押された為政側の過剰反応で「声なき良識が無視・圧殺されている」ように思える。
騒音被害による公園閉鎖もあったし、航空機騒音訴訟原告の大半が滑走路延長上であることを知りつつ移り住んだ人であることも知られている。それらは、かっては喧嘩両成敗の範疇で門前払い・痛み分けが常識であったように思う。
聴衆の野次について全て否定するものではないが、北海道での野次は、「安倍辞めろ」や「帰れ」でウイットの欠片も無いものであったようである。
帝国議会において隻眼の松岡洋右外相の演説時、「片眼で何が判る」と飛んだ野次に松岡外相が悠然と「一目瞭然」と応じたことが野次応酬の出色とされている。
先に、参院法務委員会で望月衣塑子記者が記者席から野次を飛ばして顰蹙を買ったが、野次そのものは味も素っ気もない「掛け声」であったらしい。文筆に賭ける報道記者であれば語彙も豊富であろうし頭の回転も常人より秀でておられるだろうことを考えれば、大向こうをうならせ・後世に間語り継がれる野次であって欲しかった。