お絵描き教室の夏休みが終わり、来月上旬には新たなモチーフが必要となった。
次回作は、青木繁の「海の幸」を模写することにした。
PCで原画をアレンジしても思うようにいかないが、海の幸の一部分を模写しようと思っている。
映画監督に「貴方の最高傑作は?」と問うと、「次回作」との回答が返ってくるのが定番らしい。
才能あふれる方々を真似て、次回作を頑張りたいものであるが、1か月間の休養と暑熱はカンバスに向き合う気力まで奪い去ったかのように思える。
海の幸(部分)
模写イメージ
お絵描き教室の夏休みが終わり、来月上旬には新たなモチーフが必要となった。
次回作は、青木繁の「海の幸」を模写することにした。
PCで原画をアレンジしても思うようにいかないが、海の幸の一部分を模写しようと思っている。
映画監督に「貴方の最高傑作は?」と問うと、「次回作」との回答が返ってくるのが定番らしい。
才能あふれる方々を真似て、次回作を頑張りたいものであるが、1か月間の休養と暑熱はカンバスに向き合う気力まで奪い去ったかのように思える。
海の幸(部分)
模写イメージ
産経新聞の読者投稿コラム「朝晴れエッセー」を楽しみにしている。
タイトルの通り、掲載されるのは朝に相応しく心温まるもので、怠惰に生きてきた自分の半生に比して何と多くの人が真摯に生きて来たのかと自責の念に駆られるものばかりである。
本日の投降者は、沖縄出身で大阪市在住70歳男性の、沖縄の方言「ナンクル ナイサー」に関するエッセーであった。「ナンクル ナイサー」は、沖縄出身のタレントが紹介したことで、自分なりに「なんとかなるよ」の意味と理解していた。さらには、言外に沖縄県人特有の、良く言えば「おおらかな」悪し様に書けば「やや怠惰な」南国県民気質の代表例とも考えていた。
しかしながら、エッセーによると「ナンクル ナイサー」の用法は、必ず「人は誠実で嘘をつかずにまっすぐ進めばきっと誰かが援けてくれる」という意味の方言があったのちに「ナンクル ナイサー(だから、なんとかなるよ)」と続くのが一般的であるらしい。勿論、現在では前置きの方言が省略されて使用されるのが一般的のようであるが、それでも「誠実に生きていれば・・・」という前提は沖縄県人の「問わず語りの共通認識」として存在しているのであろう。
「ナンクル ナイサー」の真の意味を知ると、そこには必ずしも今様には恵まれていなかったであろう地域社会で生きていくための共助の心構えを説いた人生訓・含蓄に富んだ方言で、自分の浅薄・生半可な理解に恥じ入るばかりである。
高校卒業を機に売り飛ばしてしまった我が郷里も方言に溢れていた。今ではその多くを忘れ、時折のクラス会で「そう云えば」程度に飛び交うくらいであるが、それらの中には自分たちが受け継げ無かった先人の教訓的表現・意味合い含まれていたのかもしれない。
現在、地方創生、地域の活性化が叫ばれて担当大臣まで置かれているが、内実は「地方の東京化」に他ならず、加えてマスメディアやSNSの普及で方言と方言が持つ地方文化は消え去る運命にあるように思える。朝晴エッセーの投降者は子供や孫に「ナンクル ナイサー」の真の意味を教え伝えていると結ばれておられるが、素晴らしい生き方であると感じ入っている。
本ブログでも時折、「日本人としてのアイデンティティ希薄化」を嘆いているが、原因は方言に含まれる先人の教訓の伝承を怠った、伝承を断ち切った我々世代にあるのかもしれない。
立憲民主党と日本維新の会の新執行部が発足した。
立民の新執行部の顔ぶれを見ると、西村智奈美・逢坂誠二代表代行、岡田克也幹事長、安住淳国対委員長、大串博志選対委員長、長妻昭政調会長とあり、民主党や枝野立民に先祖返りした新味の無い顔ぶれで、早速にも「何時か見た顔」と揶揄されている。
西村・逢坂共同代表は政権追及にしか用をなさない鉄砲玉、安住国対は新聞にランク付けして失笑された愚行しか思い出せず、大串選対は民進党⇒希望の党⇒国民民主⇒立民こ至る足取りから風見鶏に如かず、長妻政調会長はMr年金と華々しく就任した厚労大臣でさしたる成果を上げ得なかったと評価している。特に岡田幹事長に至っては、自身でも「ちょっと食傷気味だ」と自虐したと報じられているように民主党に依る空白の3年間のA級戦犯であることを見れば、一層に「今更」の観が深い。
何故に、手垢に塗れた枝野恩顧の実力者?で執行部を形成しなければならなかったのだろうか。考えられるのは、枝野幸男氏再登場の地ならしのための布石に他ならないと思っている。
今回の参院選惨敗の総括では、表向きには泉代表に「政策(戦略)の未熟」と言わしめたものの、多くの議員、とりわけ枝野信奉者は単なる「共闘選挙(戦術)の失敗」としか考えていないだろうことは明らかに思える。
泉代表は会見で「政権党を目指す姿をもっと打ち出す」と述べてネクスト・キャビネット(次の内閣)を設けるとしたが、これまで野党第一党が設けたシャドウ・キャビネット(影の内閣)の歴史を見ても、影の閣僚が委員会において担任問題に関しての質問者となることも無かったので、またまた形ばかりの存在になることは必定に思える。第一、実力者の多くを党務に着けたために、影の閣僚として岸田政権閣僚と政策に関して丁々発止と渡り合える人材がいるのだろうか。
一方で、日本維新の会も馬場信幸氏を新代表に選出し、共同代表には吉村洋文大阪府知事が就任することが明らかとなった。「橋下が捏ね 松井が搗いた維新餅」であるが、大阪都構想を出発点とすることと松井氏の関西訛りから地域政党の観が深く、全国政党への脱皮は険しい様である。
しかしながら、憲法・国防を含めて自民党の補完勢力ではなく、政権党を目指すとの意気や良し。参院選で立民を凌駕した比例票の実績を一過性のものにしないために頑張って欲しいものである。
元々、馬場氏の修辞力は高く、幹事長としての発言がしばしば新聞紙上を賑わした実績もあり、表現力・発信力を発揮して維新の更なる躍進を期待するところである。
秋の臨時国会で行われる「安倍晋三氏追悼演説」を、誰が行うのかが耳目を集めている。
当初は自民党の甘利議員が行うとの報道があったが、立憲民主党の西村幹事長が人選に異を唱えたことから、慣例に則り野党第1党の立憲民主党議員が行うこととなった。
自分は故人に対して行われる国会演説はすべて追悼演説と思っていたが、衆院は追悼演説と呼ぶのに対して参院は哀悼演説と呼ぶ慣わしであるらしい。
新憲法下での追悼(哀悼)演説は、衆参でこれまで約400回行われているとされているが、次のような慣例とされている。
〇演説の日取りは遺族の希望を聞いた上で、議院運営員会理事会で決定
〇衆院での演説者は、1998年に議院運営委員会理事会で「遺族の意思を尊重して決める」と申し合わせている。
演説者の変遷を眺めると、中選挙区制時代には同じ選挙区の対立政党の議員が、小選挙区制導入以降も中選挙区制時代に同じ選挙区で争っていた近隣選挙区の選出議員が行っていたが、平成後期頃になると対立政党議員が行う慣例も少なくなって、党派の別なく選挙区選挙の初当選議員が行うのが一般的となったらしい。
しかしながら、党首経験者クラスの場合は対立政党党首が行うという慣例は廃れていないようで、西村幹事長の主張が大勢を決して甘利氏降壇に至ったもののようである。
前述のように400回にも及ぶ追悼(哀悼)演説で、現在まで名演説とされているのは、暴漢に刺殺された浅沼稲次郎氏(日本社会党党首)に対する池田勇人氏(自民党総裁・総理)の追悼演説(1960(昭和35)年)と、山本孝史参議院議員(民主党)に対する尾辻秀久議員(自民党参議院議員会長・元厚労大臣)の哀悼演説(2008(平成20)年)くらいであるらしい。2件の演説はいずれも党派・確執を超えて好敵手・論敵を称えるもので送られる者と送る者双方の事績と哀悼を明らかにしたとされている。
慶應義塾大学教授で元民主党参議員(鳩山内閣官房副長官)の松井孝治氏がフェイスブックで「立憲民主党が乗り越えなければならないのは、(国民から)追悼演説でもまた口汚い批判を繰り返すのではないかという疑念だと思う」と書き込んでいるらしい。文意は将に声なき声を代弁していると思っているが、泉代表が行うであろう(かもしれない)追悼演説も、政敵・論敵を葬送するに相応しく格調高いものであって欲しいものである。
中国コロナに因る死者が37,965人(累計、2022.07.24現在)と統計されている。
数字に疎い自分は、約4万人という死者がどのようなものか実感できないので、過去の厄災の記録を調べてみた。
近代日本初の外征である日清戦争では、軍人・軍属の戦死1,132、戦傷死285、病死11,894、戦傷病3,758、合計13,488人(参謀本部「日清戦史」)となっており、既にコロナ死者は)日清戦争の被害を超えている。
市民・非戦闘員の多くが犠牲となった大東亜戦争の無差別空襲被害では562,708人が犠牲となり大規模な東京大空襲(116,959人)、原爆被害者(広島262,425人、長崎75,380人)を除いても全国で10,7944人が亡くなっているが、中国コロナの県別死者数は既に12府県で空襲被害を超え、コロナ禍がこのままで推移するならば、都道府県の半数近くが大東亜戦争の空襲被害を超える事態も考えられるように思える。
某議員の表現を借りるならば、コロナ禍に依る犠牲者の多くが生産性のない高齢者であるので国家的損失は少ないようにも思えるが、3年間弱で4万人という犠牲者は今更ながらに未曽有の災害であるように思う。
政府は、感染者の「全数把握」に関して、全国一律ではなく都道府県の判断で高齢者等に限定できる制度に改めることや、中国コロナをインフルエンザと同様の5類に格下げすることを検討中とされる。
既に「全数把握」を止めた先進国も多いとされ、医学関係者からも全数把握が労多くして得るものは少ないとする声が高いようであるが、市の公報で感染状態を眺めて行動自粛の指標としている身としては残念な思いがする。5類への格下げに関しても、ワクチン接種が有料となって貧者の身には痛打となること必至に思える。
コロナ第6波が小康状態となった頃、識者は第7波の到来を予想していたにも拘わらず、世論から行動制限の撤廃等を求める声が高くなって「国民のコロナ疲れに依る厭戦気分」が問題視されたが、今回の政府検討の様相を眺めると、政府も厭戦に靡くとともに財政的にも負担に耐えられねくなったのではと懸念している。