もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ジョン・カンスタブル-2

2023年06月29日 | 美術

 武漢コロナが猖獗を極めていた2021年4月、外出自粛で「カンスタブル展」の観覧断念を書いた。

 その際に「跳ねる馬」・「干し草車」・「フラットフォードの製粉所」の3点を紹介した。
 その後、PC美術館の整理と「カンスタブル口座(フォルダ)」を見直して不鮮明な画像を削除したが、それでも30点近くが残った。
 本日は、既掲載の3点を除いた5点を紹介しまので、真夏日の納涼にお役立てください。


「主教の庭から見たソールズベリー大聖堂」(米・フリック・コレクション蔵)


「草原から見たソールズベリー大聖堂」(テート美術館蔵)


[白い白い馬」(米・フリック・コレクション蔵)


[水 門」(英・ロイヤルアカデミー蔵)


[水 門」(個人蔵)


市川猿之助報道に思う

2023年06月28日 | 報道

 市川猿之助氏が自殺ほう助の疑いで逮捕された。

 事の起承は取り調べや裁判で明らかにされると思うが、事件の発端に関しては些かの違和感を持っている。
 これまでのところ週刊誌が「猿之助氏のパワハラ」を報じたことが発端とされているようであるが、今ではパワハラの有無に関しての考証・追加取材を報じるものは無く、本人の自殺未遂と云うことも加わってかパワハラは既成の事実とされている。これは、発信元以外の報道各社が、事実関係を追加取材することも無く「週刊誌によると・・・」と際限なく続報し続けたことが大きいように思える。確かに「週刊誌によると・・・」は引用に過ぎない正確な報道であり、若しパワハラが事実無根であったとしても引用者に責は及ばないと考えているのであろうが釈然としないし、もしパワハラ行為が真実でなかった場合には発信元と同様の責を問われるべきではないだろうか。
 スクープに対して真偽追求よりも、出し抜かれた報道機関が負けじとよりセンセーショナルに報道することを「提灯を点ける」と称し、心あるジャーナリストはそれに類する記事を「提灯記事」と呼んで戒めたとされている。
 また、かっては大方の読者も、タブロイド紙やゴシップ誌の報道に対して、「眉唾」・「話半分」と斜に対処する理性があったが、公党が国会審議の場で週刊誌記事を根拠として政府や閣僚を攻撃することが当たり前となって、週刊誌の報道は雑誌の品格を問わずに凡てが真実とされるように様変わりしてしまったように思える。
 歯医者や床屋の待合室に置かれた週刊誌を眺めただけの経験であるが、記事に登場する暴露・糾弾者は「数年前に袂を分かったA」や「見聞きしたB」である場合が殆どである。週刊誌は筆禍訴訟が起きた場合には「取材には自信を持っており・・・」とコメントするが、判決では敗訴する場合も多い。また、当事者を「A」や「B」とするのは一様に取材源の秘匿・保護とするものの、果たして実在しているのだろうかとの不信感もある。

 永田町では数年前に、野党議員を揶揄する「週刊誌を読み上げるだけの簡単なお仕事です」というジョークが流行したとされるが、今や「有権者は週刊誌の記事を盲目的に信じるので、政策を主張するよりも週刊誌ネタを活用する方が簡単です」と進化しているのかも知れない。
 猿之助氏を巡る報道が悲劇的な結末を迎えた今、件の週刊誌の記者・デスクは「自分・自社の記事で社会正義が行われた」と胸を張っているのだろうか。できれば、「些かの誇張が老い先短い老人を殺し、有為な青年の将来を奪った」と臍を噛んでいて欲しいものである。


傭兵考

2023年06月26日 | 防衛

 ロシアの民間軍事会社ワグネルの反乱が終息した。

 反乱の動機や経過は現在のところ憶測の域を出ないが、ベラルーシのルカシェンコ大統領の仲介で「ワグネルはモスクワ進軍を停止・プリコジン氏はベラルーシに亡命」、プーチン大統領は「プリコジン氏に対する訴追を撤回、ワグネル構成員の免責」で手打ちされたとされている。1週間前まではワグネルを率いたプリコジン氏は「プーチンの料理番」、ワグネルも「プーチンの私兵」とされてプーチン大統領に全面的忠誠を誓っていたことを思えば将に隔世の感がある。
 ワグネルの構成員の大半がロシア人とはされるものの、多くはワグネル入隊を条件に一時的に解放された囚人であるともされているので、ワグネルはロシアに忠誠心を持つ義勇軍ではなく金銭を仲立ちとする傭兵であると思っている。
 以下は、記憶を頼りの記述であるので誤りがあるかもしれないが、傭兵についてのあれこれである。
 傭兵と聞いて先ず思い出すのはカルタゴ軍である。金満の都市国家であるカルタゴは、自領の防衛を含む軍事の全てを傭兵に依存しハンニバルが率いた外征軍も傭兵集団であったとされている。
 ローマ帝国も、版図に組み入れた準州などから兵役後のローマ市民権付与や土地の無償供与を恩賞として志願兵を募って強大なローマ軍を維持している。
 中国戦国時代に活躍した墨家は、豪族から請われた場合は武装して守城戦・籠城戦に協力・或いは指導したとされている。
 バチカン市国は、16世紀初頭以来現在まで警備をスイス傭兵に依存しており、スイスも永世中立の理念に反するバチカン警護を、歴史的・儀礼的理由から容認している。
 植民地経営のためのフランスの外人部隊は、インドシナ戦争の中核兵力であったとされ、モロッコなどの北アフリカでも前線の戦闘部隊は外人部隊であったとされる。

 本来、戦闘に従事する兵士は、国益や祖国の防衛のために従軍する者であろうが、国益という実態で把握できない名目で動員されることも珍しくない。朝鮮戦争やベトナム戦争では参戦した米兵や後方の多くは「なんで縁も所縁も無い極東で米国の青年がが血を流さなければならないのか」という懐疑が蔓延したとされる。
 些かに牽強付会かもしれないが、国連が組織する国連軍や多国籍軍にも、兵士の国籍とは相関しない戦闘であるために、うっすらとではあるが傭兵の趣が感じられるようにも思える。

 少子高齢化で自衛官の確保に腐心している日本を考えると、日本でも傭兵・外人部隊の導入・創設を考えなければならないのではないだろうか。こう書けば、極めて尖鋭な反論が目に見えるが、「ではの守」で申せば、アメリカでも数年の兵役で市民権を与える一種の移民制度が機能しているので、同種制度の議論も非現実的と排除すべきではないように思える。


タイタン事故に思う

2023年06月25日 | 軍事

 タイタニック見物ツアー潜水艇の事故が報じられた。

 ツアーは、米国の旅行会社「オーシャンゲート・エクスペディションズ」が保有する潜水艇「タイタン」で行うもので、費用は3,500万円とされている。
 事故は、タイタンの潜航直後に通信が途絶したものの「潜水艇内からの打撃音がする」との情報もあって各国は共同して捜索・救助活動をしていたが、結果的には、フランスの潜水調査船がタイタンの残骸を発見したことで、「潜水艇の圧壊によって乗員・乗客5人の死亡確認」という結末を迎えた。
 現在、潜水艇圧壊の原因は断定されないながら、「繰り返し応力による耐圧殻の金属疲労」が有力と推測されている。

 我々世代は、幼児期には「島国日本。海洋国家日本」、長じては「技術立国NIPPONN」と教えられてきたが、今回の事故報道などを観ると、それらは神話と化しているように思える。
 報道では、「タイタンは爆縮」と報じられたが、「爆縮」は密閉容器内で火薬等を爆発させて爆発力で容器内の圧力を高めることを言い、今回のように外部の圧力で容器(耐圧殻)がつぶされる現象は「圧壊」とされるべきと思う。秘密保持のために隊員と雖も潜水艦の詳細について教育されないために自分の潜水艦に関する知識は一般人と同程度であるので、潜水艦部隊ではこのような現象を何と呼ぶのかは知らないが、圧壊を爆縮とするのは、工学・海洋・海事知識の不足であるように思う。
 かの前川喜平氏が「タイタンの救援に日本も「しんかい調査船」を派遣しては」とツイートされたらしいが、事務次官まで勤められた前川氏ですら、大西洋カナダ沖と日本の位置関係、母船搭載「しんかい」の航海費消時など、海上輸送のイロハすら理解されていないもののようである。

 タイタンの残骸発見後、米海軍は「タイタンとの通信が途絶したとされた時刻に、付近海域で潜水艦(潜水艇)の圧壊音を聴知し、直ちに米・加の捜索・救援部隊と共有された」と明らかにしている。
おそらく、米海軍が世界中に敷設している「音響監視システムSOSUS(Sound Surveillance System)で聴知したものであろうが、このことについても、広報と秘密保全に関して学ぶべき点があるように思える。
 もし、この情報が日本に伝えられたら、どこからともなく漏れるであろうし、その場合には捜索・救難部隊の行動・意欲に微妙に影響した可能性がある。また、「そのような重大な情報を公にしなかったのは国民の知る権利を損なう」との論調が沸き起こるであろうが、情報管理と秘密保全の鉄則は「必要な部署には遅滞なく配布するが、不必要なところには配布しない」で、報道機関と国民は「不必要なところ」に該当するということを学ばなければならないのではないだろうか。


バックホイゼンを眺める

2023年06月24日 | 美術

 バックホイゼンの海洋画を眺めている。

 Wikipediaによると《ルドルフ・バックホイゼン(1630(寛永7年・徳川家光)年-1708(宝永5年・徳川綱吉)年)は、オランダ国境に近い現在のドイツのエムデンに生まれた。アムステルダムの商家で事務員及び司書として働きながら海洋画家のウィレム・ファン・デ・フェルデに影響を受けてペン画で、港の船の絵を描き始めた。その後、油絵の技術を学び、ヘンドリク・デュベルスの弟子になり、海洋画家アラールト・ファン・エーフェルディンヘン)の元で働き、海洋画家として国外でも知られるようになった。1666年にアムステルダム市からフランスの大臣に贈る絵画として注文を受け、現在はルーブル美術館に収蔵されている「アイ湾からのアムステルダムの眺め」を描いた。アムステルダムで最も重要な海洋画家とみなされトスカーナ大公コジモ3世やロシア皇帝ピョートル1世もバックホイゼンの工房を訪れた。》と解説されている。
 ちなみに彼の生年に当る「寛永」と聞くと、曲垣平九郎の「寛永3馬術」を思い起こすのは、如何なものであろうか。

 自分でも、及ばずながら海洋画(もどき)をと思って、ラッセル・クロー主演の「マスター・アンド・コマンダー」の戦闘シーンを手掛かりに「海戦」を描いたが散々な結果となった。
 残された日は少ないが、捲土重来を期して。


「自画像」-所蔵先不明


「アイ湾からのアムステルダムの眺め」-ルーヴル美術館


「岩礁で遭難した船」-米・ナショナルギャラリ


「嵐で座礁する船」-ブリュッセル美術館


「砂浜沖のオランダのボート」-ルーヴル美術館


「荒れた海のオランダ船」-ルーヴル美術館


「岩礁で難破したオランダ船」-英海軍博物館


「海 軍」-ルーヴル美術館


「ナールデン砦の前の船」-所蔵先不明


「オランダ艦隊の帰還」-ルーヴル美術館


「エムデンのオランダ船」-所蔵先不明