もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ジャニーズ会見に思う

2023年09月08日 | 報道

 ジャニーズ事務所の出直し会見が行なわれた。

 4時間以上に及ぶ会見をテレビ各局は挙って生中継したので、自分も”ながら視聴”して「性加害の再発防止と被害者保障に関しては今後、新組織で取り組む」ことは分かったが、会見における一部記者の言動に少なからぬ疑問を持った。
 質問者の所属などは聞き取れなかったが、詰問口調での質問は「週刊文春が報じた内容に関して、新社長の所信を問う」ものであった。自社或いは自分の取材した内容に関して問い詰めることは当然であるが、同業他紙の報道内容を追加取材することなく質問する記者の発言は、ジャーナリストとしての適格性や見識に疑問符が付くものではないだろうか。
 他紙の記事をファクト検証することなく付和雷同的に報じた結果、世論がミスリードされた苦い歴史を我々は経験している。
 その最大の事例は、朝日新聞の「半島出身慰安婦の強制連行」事案である。朝日新聞のフェイクにメディアが大々的に提灯を点けた結果、教科書には記載され、国連の正式レポートに掲載され、韓国の最大論拠となり、河野・村山談話に至って国際的には既に歴史の真実と化してしまった。また、やや小ぶりながら、検証すれば容易に偽物・不正確な資料と断定できる立民小西議員の高市総務相攻撃文書の事例もある。
 メディアやジャーナリストと雖も誤報は根絶できないだろうものの、自社或いは他社の報道内容に関して常に「ファクト・チェック」を行うことで誤報局限と訂正報道の自浄作用が働くと思っているが、今回の会見における質問記者の言葉を見る限り、「朝日のような大新聞が報じたから」・「芸能情報に詳しい文春が報じたから」、報道内容は正しく「バスに乗り遅れるな」という付和雷同倫理が垣間見えたように思える。

 総理辞任・ロッキード汚職にまで発展した田中角栄氏の金権政治批判に先鞭を付けたのは立花隆氏であるが、各社が立花氏に追随して角栄氏批判に転じるには相当の長時日が必要であった。そこには、宰相批判には社運を賭ける必要があるために各社が入念な上にも入念な裏付け取材を行って、立花理論は正しいと判断したためであろうと思っている。
 このように、メディアが協調して報道することによって山が動くことも事実であるが、今回の記者のお手軽発言は残念であり、せめて冒頭に「文春の報道は我社でも正確と確認したが・・・」くらいは付ける見識を示して欲しかった。


世論と報道の変質

2023年08月30日 | 報道

 警察官の発砲が報じられたが、お決まりの文言は無かった。

 かっては、警察官の発砲が報道される場合には、最後に必ず「発砲の適法性」についての警察の見解や報道機関の意見の形で疑問符を付けてなされるのが定番であったが、近年ではそれらに触れることは殆ど無い様に思っている。
 犯罪が多様化・劇場化・狂暴化するとともに警察官自体への襲撃も多発し、更には制止の言葉が通じない外国人の犯罪が引きも切らない現状では、警官が身を守りつつ犯人を制圧するためには銃器を使用せざるを得ないことが漸くに理解され始めたのではないだろうかと思っている。
 また、終戦記念の日前後に靖国神社を参拝する閣僚に対して「公人としてですか私人としてですか」という質問が投げかけられるのも定番であったが、ここ2、3年この質問を投げかける映像を見かけることが無くなったし報道もされなくなったとも思っている。
 自分は、警官の安全よりも犯人の生命を優先するかのような報道や、政治家(公人)の私的側面を云々する一方で靖国参拝には中韓に阿るかのように公・私人の別を追及することを不快に思っていたので、近年の報道姿勢については漸くに正常になったと思っている。
 報道の変質は何故に起きたのだろうかと考えれば、報道機関が自社独自の「報道コード(code)や理念を持たない」ためと考えても良いのではないだろうか。報道コードで警官の多少の犠牲よりも対象者(市民)の安全を最優先すべきとすれば「発砲の適法性」の質問・追及は譲れず、閣僚の靖国公的参拝を違法とするならば「公人としてですか私人としてですか」という質問は避けて通れぬように思える。
 では、報道機関の取材・報道の基準は何だろうかと考えれば、「世論への迎合」を全ての基準としているのではないだろうか。世論が望むものを望むベクトルで報じることは、比較的に容易・安易であるとともに、報道の責任も世論に転化できる。好個の例は朝日新聞が行なった従軍慰安婦の強制連行報道である。入念に取材すれば嘘と分かる吉田清治氏の証言を「正」と報じたのは、事の真偽よりもスケープゴートを求める世論に迎合することを優先したためであり、20年間以上も垂れ流し続けた虚を僅か1回の訂正(記事取り消し)で済ましたのは、「読者がそう望んだから」という開き直りであったと思っている。

 明治初期にあって新聞が、固陋制度の改革と開明思想の啓蒙に指導的・牽引的な役割を果たしたとされており、リアルタイムの映像が提供できるテレビは世論の形成に大きく影響するとされるが、現在のように新聞・テレビを始めとするメディアが挙って世論に忖度する以上に迎合するかのような姿勢は如何なものであろうか。


OSO18考

2023年08月23日 | 報道

 先月射殺されていたヒグマがDNA検査で指名手配中のOSO18と確認・特定された。

 検視では、体長210㎝、体重330㎏、命名の由来である足幅は18㎝ではなく20㎝であったとされている。
 OSO18による放牧牛被害は60頭以上とされているので射殺は当然であろうが、自分としては酪農者には申し訳ないが「射殺は残念」である。
 これは、動物愛護等の崇高な理念からではなく、単純に「お上に逆らう五右衛門や鼠小僧」に喝采した町民と同じもので、OSO18の「罠を見破り」・「警備をあざ笑うかのような神出鬼没」は、おそらく経験を知識に変える高い知能を持っていた所為であろうし、もしOSO18が知識を伝える言葉を持っていたら、ヒグマは飛躍的に進化していたかも知れない。
 OSO18は、五右衛門・鼠小僧のように分限者の牛だけ狙うことや貧者に施すことも無かったが、それでも臍曲がりの自分は「頑張れ!!」・「生き延びろ!!」と内心でエールを送っていた。

 OSO18の射殺を伝えるテレビ・新聞は一様に、「ハンター(猟友会)によって駆除された」と報じている。射殺と云う殺伐な響きを嫌っての自主規制と思うが、如何なものであろうか。
大東亜戦争末期には、大本営発表の「転進」は退却若しくは敗退を意味していたとされるし、「○○方面との伏字報道については記事の中にヒントが隠されていた」ともされている。今回の「駆除」報道についても、実行者がハンターであることから銃に依る射殺以外は考えられないが、真実を読者の判断に任せるのは適切ではないのではないだろうか。また「駆除」はゴキブリやシロアリ退治に使用されるように、将に「虫けら」扱いの意味合いが強く、相当な知能(悪知恵でも)を持った害獣に使用するのは如何なものであろうか。
 殺伐な言葉の言い換え・ソフト化は他にも「鎮圧」⇒「排除」の例がある。鎮圧には強権的は響きや武器装備使用の響きがあるが、排除は比較的に穏やかに推移したとの響きを持っている。映像では屈強な兵士や警官が時には催涙弾や放水車を使用しているのに「排除」が真実を伝える正しい言葉であろうか。そのうち警官による無法者射殺も、駆除若しくは排除が使用されるようになるだろうか。

 知能の高いOSO18は、死に臨んで「・・・浜の真砂は尽きるとも・・・」と辞世したのであろうか。


女子サッカーW杯の放映に思う

2023年08月02日 | 報道

 女子サッカーW杯で、撫子ジャパンが予選リーグを首位通過した。

 開幕直前まで同大会はテレビ放映されないとされていたが、直前になってNHKが放映することとなった。女子W杯がテレビ放映されないのは、女子サッカー人気が低迷していること以上に、放映権料の高騰が主な理由であるらしい。しからば放映権料は如何ほどかと調べると、確かな金額は非公開であるが、情報雀の記事を斜め読みした限りでは「男子カタール大会は約350億円で今回大会は約120億円」程度であるらしい。
 120億円が高いか安いかは論が分かれるところで、NHKの放映にも賛否の意見が寄せられているとされる。賛否の内容まで分からないものの、反対意見を想像する限りでは「受信料の使途として不適切」的なものであろうが、NHKは「世界に注目されて、国民的に関心が高いスポーツを視聴者にお届けするのは公共メディアのひとつの役割」としている。
 澤穂希選手は出場しているの?程度の興味・知識しかない自分には、賛否をとやかく言う資格は無いであろうが、ここはNHKの言い分に軍配を上げたい。
 CM収入をベースにしている民法では、女子サッカーの人気低迷を考えれば120億円分のCMを負担してくれるスポンサーが期待できない以上、身銭を切ってまで放映することはできないだろうし、もし放映権を購入すれば経営者は株主から背任罪で訴えられる可能性も有る。
 受信料収入を主要財源とするNHKは、スポンサーの顔色に忖度せずに事業を行える強みを持っているので、今回の放映も視聴を希望する人数の多少を問わずに決定できたのであろうし、極論するならば、もし視聴者の一人にでも好影響を与えることができたならば、放映は成功と評価しても良いのではないだろうか。

 公営放送自体を疑問とする人、受信料の支払いに反対する人は少なからず存在する。かく言う自分も、「緑なき島」の制作や放映権売却、高校生の「模擬東京裁判」などに関するNHKの姿勢に対しては注文があるが、通信手段がネット中心になった今でも、全国津々浦々にまで張り巡らされた放送網は維持すべきであると思っている。
 例えば、空襲警報等の一斉伝達には有効な手段であろうし、大東亜戦争においては軍の指揮通信が途絶して孤立した部隊が、玉音放送で終戦を知り戦闘行動を停止したケースもあるとされている。
 NHKは、今回の女子サッカーW杯放映で見せた「公共放送の役割」という主張が、真の輝きを持つように制度改革に努めて欲しいものである。


Big motor事案に思う

2023年07月29日 | 報道

 Big motor社の不祥事が連日報じられている。

 自分は、単にBig motor社のガバナンスの問題と捉えているが、先日、そこそこ著名なコメンテーターがTVで「監督官庁の責任は重い」と発言されていた。
 経済に暗いので以下の記述は正確ではないかもしれないことを予めお断りして書き進めるが、
 さて中古車販売の監督官庁は?を知らないので調べてみると、「中古車販売」の許認可は古物営業法によって、都道府県の公安委員会であるらしい。そもそも古物営業法は、故買によって犯罪者が盗品を換金することを防ぐとともに、犯罪捜査の利便性を高めるために整備されたものらしく、申請者が暴力団関係者や住所不定者で無ければ誰でも認可されるほどの緩さで、事業者に求められているのも盗品等の疑いがある場合の警察への通報くらいであるように理解した。しかしながら、今回の事案に対して経産省がBig motorへのヒアリングを実施しているところを観れば、認可した公安委員会以外にも、同社の活動を監督する官庁があるのかも知れないが、経産省の監督は杜撰な審査で保険金を垂れ流していた保険会社に向けられたものであろうと推測している。閑話休題。
 本日の主題は、コメンテーターの言動に関してである。
 同人は、過去の官製談合や放送事業と電波法の関係などについて、官の許認可制度を厳しく否定されていた。特に電波法による周波数の割り当ては自由な表現・報道を制限するという趣旨から、全ての電波を市場に委ねるべきであるとしていた。そうなれば、金満中国の国営企業が大手を振って日本の通信・放送事業を我が物にする事態は当然に予想されるだろうことは全く意に介する気配も無く、テレ朝・TBSの偏向番組擁護に終始していた。国の骨幹を担う電波についてすら官の関与を否定する一方で、Big motor社に対する官の監督責任を問うのはいかにも、耳障りの良い論調で身過ぎ良すぎする御都合主義と云わざるを得ないものに思える。

 自由経済社会では、個人の経済活動に対する官の関与を極力小さくすること目標にし、日本でも岩盤規制の撤廃が合言葉としてもてはやされた時期があり、漸くに新規起業や他業種への参入が容易となったと思っている。規制の撤廃は、企業の経済活動は市場原理で行われるとともに企業の存続・淘汰も市場の自浄作用に期待するものであるために、Big motor経営者のように悪意を持った商業活動も市場から排除されない限り淘汰されないという宿命を持っていると思っている。
 平成28年のデータでは、全国の企業等数は約386万社とされているので、この全てに官が目を光らすことは物理的にも不可能で、明るみに出た違法行為の対処・パッチ充てが精一杯ではないだろうか。
 以上のことから、「過去の主張は置いて、何かあれば官の責任を追及する」コメンテーターに些かの不信感を持つ場面であった。