李登輝氏(97歳)の訃報が報じられた。
李登輝氏は、台湾初の民選総統(1988~2000年)として台湾の民主化を実現するとともに、現在の中台関係の基礎を築いた人物とされている。氏は1923(大正12)年に日本統治下の台湾に生まれたが、一族は古くから台湾に住みついた客家であったために、漢族でありながら戦後に本土を追われて台湾に移住した外省人とは一線を画した人生であったとされている。さらに氏は「岩里政男」という日本名の下に京都帝国大学農学部に入学し、1944年には学徒兵として名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として従軍している。また、反日・抗日の蒋介石一族治世化にあっても、「21歳(1945年)まで日本人だった」「難しいことは日本語で考える」と公言するとともに、生涯流暢な日本語を話し訪日時は日本語を使用していたことでも知られている。本省人でありながら蒋介石の息子である蒋経国の知遇を得て国民党へ入党、蒋経国政権の政務委員、台北市長、台湾省主席等を歴任し、1984年には蒋経国によって副総統候補に指名されている。1988年に蒋経国が死去したため総統を継承2期12年間台湾を率いた。氏の最大の功績は、一方的に国共内戦の終結を宣言して中華民国(国民党・蒋一族)が掲げ続けてきた「反攻大陸」という空疎なスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという現実路線に転舵したことであると思う。そのため、国民党でありながら中国からは台湾独立の精神的支柱とみなされ第3次台湾危機のような恫喝を受けている。一般的に台湾の政情は、国民党=中国との完全一体化若しくは1国2制度に依る同化志向、民主進歩党=台湾独自路線とされるが、李登輝氏が国民党でありながら現実的な選択をしたことは、共産党独裁国家の危険性を忌避する意識が強かったためと思われるが、父祖の地が台湾であり、外省人のように何が何でも父祖の地中国本土を踏みたいという意識が無かったことも関係しているように思う。
1971年のアルバニア決議を不満として国連を去った後、世界各国から断交されて孤児となった台湾が今もって永らえているのは、李登輝氏や衣鉢を継いだ国民の功績であろうと思う。習近平中国の世界制覇の野望が明らかとなって、世界には再び中国と距離を保って台湾問題を再評価しようとする空気が感じられる。アメリカは要人の往来を解禁するとともに最新鋭武器の売却を容認し、英仏はアメリカの行う自由の航行作戦に参加しているが、残念ながら日本には台湾擁護に対する特段の動きがない。歴史に"If"は禁物であるが、尖閣諸島の台湾帰属に疑義を表明していた李登輝氏に対する支援等を行っていれば、別の展開になっていた可能性もある。ともあれ、日本人以上に日本人であった李登輝氏に”合掌”。