もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

大きな政府を学ぶ

2020年05月31日 | アメリカ

 立憲民主党がようやく政権構想らしきものを発表した。

 構想は内政に限ったもので、野党再編の制約となる思惑からか憲法・外交・安全保障に対する取り組みには触れていない。内政で特異な点は「小さな政府からの脱却」すなわち大きな政府を目指す点であろうと思う。政府の大小論は18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスの分析・提唱から起きたもので、現在に至るもそのどちらが国民にとって有効であるのかは結論に至っていない。政府の大小とは、経済活動を含む国民の社会活動に対する政府の関わりの程度を比べたもので、小さな政府とは国家による規制を最小限にとどめて社会活動を自由競争に委ねようとするものであり、大きな政府はその逆の手法と理解している。一般的に小さな政府は社会格差を生み易いとされ、大きな政府の究極は共産党に依る独裁国家(中国)であるとされるが、スェーデンに代表される高負担・高福祉の大きな政府が成功している例もあることから短絡的な判断は当を得ていないようにも感じる。人口千人あたりの公務員数は、日本(42.2人)、フランス(95.8人)、アメリカ(73.9人)、イギリス(78.3人)、ドイツ(69.6人)とされているので、日本は小さな政府の代表格であると思う。これまで消費増税・公務員の定員増・憲法の緊急条項追加等に反対し、折に触れて各種規制の撤廃や格差是正を訴えていた経緯から、民主党の流れをくむ立憲民主党は当然「より小さな政府」を目指していると思っていたが、今回の武漢ウウイルス禍に当たって、公的医療機関の限界・私企業に対する支援業務の遅延・外出制限が要請しかできなかった事実などの実態が露呈したことから、もっと国民の生活を統制する必要を感じたものであろうか。しかしながら記事を読み進むと、枝野代表は「小さな政府からの脱却」を東日本大震災の直後から構想していたと述べているが、立党以来の政治活動からは全く伺い知ることは出来なかったもので、将に唐突な方針転換と観るべきではないだろうか。一方で、お家芸である「その場しのぎのウケ狙い」の匂いも感じ取れるが。

 今回の新聞報道が5面・2段になされていることから、政界の大きな動きとはみなされないのだろうが、自民党安倍政権の不支持率急昇を受けて政権の受け皿まで睨んだ政策転換とすれば、1面大見出しにされてもおかしくないものと思う。枝野代表の目指す「大きな政府」が中国型・スェーデン型のいずれかはっきりしないが、「一回り大きな政府」の必要性を感じていた自分としては、注視すべき方向転換とも観ている。


日本海海戦記念日と「久松五勇士」顕彰譚

2020年05月29日 | 歴史

 一昨日(5月27日)は115回目の日本海海戦の戦勝記念日(旧海軍記念日)であった。

 日本海海戦は、日露戦争下の明治38(1905)年5月27日から28日にかけて連合艦隊とロシアのバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)との間で行われた海戦で、連合艦隊の大勝によって日露戦争の帰趨を制した海戦である。双方の損害は、バルチック艦隊(沈没21隻、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻、戦死4,830名、捕虜6,106名(ロジェストヴェンスキー・ネボガトフ両提督を含む)、連合艦隊(水雷艇3隻沈没、戦死117名、戦傷583名)であり、艦隊決戦としては現在に至るまで史上稀に見る一方的勝利とされている。大勝利の背景としては、日本海軍が精強であったことの他に、日英同盟によってイギリスからの情報や補給妨害の支援を得たこと、連合艦隊の優速、下瀬火薬の破壊力、巧緻な監視態勢等々が挙げられるが、日本海海戦当時の日本軍は、大東亜戦争の敗因ともされる情報戦や装備の近代化においてはロシアを凌駕していたと考えられる。本日は、大勝利には直接寄与できなかったものの、国難に挺身・貢献しようとした銃後の「久松五勇士」顕彰譚である。日本海海戦に先立つ5月23日に奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。奥浜は宮古島の平良港に26日午前10時頃に着き役場に注進し、宮古島は大騒ぎとなったが当時の宮古島には通信施設がなかったため、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲・与那覇蒲(前記とは同姓同名の別人)の屈強な漁師5人を選抜し石垣島に通報することとした。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕いで石垣島の東海岸に到着、さらに30キロの山道を歩き27日午前4時頃に八重山郵便局に飛び込んだ。局員は電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。大本営へのバルチック艦隊発見報告は既に27日の4時50分に連合艦隊特務艦隊所属の仮装巡洋艦「信濃丸」から報告されていたために、信濃丸の報告よりも数時間遅れたこの情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和になって教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。戦後、教科書から姿を消すと本土では瞬く間に忘れ去られていったが、宮古島や石垣島では依然として郷土の英雄という評価は揺るがず、石垣島の上陸地点には「久松五勇士上陸之地」の石碑が、宮古島にはサバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられたとされている。

 開戦に先立つ電文の末尾に「・・・本日天気晴朗なれど波高し」と秋山真之参謀が付け加えたことから、当日の海象は決して穏やかなものでは無かったであろうし、戦闘に依る犠牲を強制されない銃後の国民であれば、当時の世相下でも手漕ぎ船に依る170Kmの航海を拒否することもできたと思うが、彼等は国民の義務として・莞爾として出港したものと思いたい。滅私奉公は死語となったが、もし彼等の「爪の垢」が残っていたら、自分も飲まなければならないし、飲んだ方が良い人も多いのではないだろうか。・・・と考えた海戦・海軍記念日であった。


第2次補正予算に思う

2020年05月28日 | 社会・政治問題

 第2次補正予算が閣議決定され、先に成立した補正予算と合わせた総額では233兆円となった。

 人と呼ばれることを覚悟して4月10日のブログで休業補償に反対する旨を書いた。その後は、休業を余儀なくされた方に対して失礼であると思って、政府や自治体の金銭的な取り組みに対して一切発言しないこととしたが、本日は2回目にして最後の主張である。233兆円は国家予算の2倍弱・日本の名目GDPの半年分に近い額で、家計に例えれば年収の半年分を2か月強で使い果たしたことになるが、これだけの巨費を投じても完全な救済には程遠いもので、既にコロナ倒産が出始めている。現在、中国コロナ禍は終息の気配が漂っているものの、ウィルスを駆逐できたものでは無く第2・3波のパンデミックも覚悟しておかなければならない小康状態であり、予防ワクチンや有効な治療薬が開発されるまで、この状態は継続される。こう考えると繰り返し襲ってくる中国ウィルス禍に対しても、今回と同様の補償が行えるのだろうか。今回の補正予算の財源の大半は国債であるために財政赤字は更に膨らむ。これまでは、予算審議等の過程で財政健全化を主張して赤字国債の膨張にブレーキを踏む人が存在したが、その人々も今回は一様に力一杯アクセルペダルを踏みこんでいるように感じられる。また、これほどの金額が一挙に市中に放出されることによって市況は悪性インフレに移行することは確実で、支援金や給与の目減りはより顕著となる。アベノミクスは消費拡大のための低金利に依るデフレ脱却を柱としていたが、悪性インフレの進行はアベノミクスをも根底から脅かすものになると考える。

 ここまで経済音痴の杞憂を書き連ねたが、メディアにもブレーキは踏まないまでもアクセルペダルからは足を離した論調が散見されるようになった。凡そ国家施策等の公にあっては「二重基準」であってはならないために、財政状態がいかように変化(悪化)しようとも今回の公的補償の基準は今後とも継続しなければならないが、「果たして、この状態で国が保つのだろうか」という疑問は当然に検討しなければならないものと思う。第2次補正予算の審議にあっても緊急性を優先して、略全会一致に近い形で即決されると思われる。イスラム社会では満場一致の決定は、全員が正しいか若しくは全員が間違っていることを示すものとして無効とされるが、補正予算の議事・議決に当たっても、補償の継続性と財政健全化の兼ね合いが議員諸子の胸中に過ぎることを祈っている。


必需消費と選択消費

2020年05月27日 | 社会・政治問題

 中国コロナは文明の転換点とするインタビュー記事を読んだ。

 記事は仏文学者の鹿島茂氏へのインタビューで、氏は中国コロナは国民の消費行動を変化させ、その結果産業構造までもを変えてしまうというものである。一般的・学術的な区分・表現であるかは不明であるが、氏は国民の消費行動を、生活に必要なもの以外殆ど買わない「必需消費」と、その他の余暇や嗜好品などを「選択消費」と分類し、2か月に及ぶ巣ごもり生活で余儀なくされた「必需消費」は、コロナ禍終息後にあっても「再び起こることを懸念する恐怖感」からその傾向が維持されるとしている。氏は、日本の経済構造が「選択消費」を前提として成り立っているために、国民の消費行動が変化すれば経済行動も変わらざるを得ないと論を進めているが、他の先進国に比べて労働人口が第3次産業に偏重している現実、ガラケーに代表されるように優れた機能や性能を持っているが国際標準とはかけ離れたために海外に販路を拡大できず国内だけで通用する製品も少なくない現実、インスタ映えと称してピンポイントの観光拠点に集中したり人気店に行列する現実などを見ると、現在の経済構造は選択消費という幻を土台にし、繁栄・好景気は砂上に築かれた楼閣であるようにも感じられる。さらに氏は、文明はヒト・物・金の流通によって進化してきたが、必需消費はその流通を変化させ昭和30年代の文明構造に後退するともしている。昭和30年代と云えば、3C(車、クーラー、カラーテレビ)が羨望の的であった時期であるが3Cが生活必需品に変化している現在を考えればそこまで後退することは思えないが、氏が贅沢品や贅沢行動という概念を文明構造という言葉で表現していると解釈すれば納得できるものである。中国コロナで体験・実感した不要不急自粛の意味は、まさに選択消費から必需消費への転換を促すものであったのかも知れない。

 年金生活で「必需消費」限定の生活を送っている自分としては、日本の経済構造が「選択消費」抑制の方向にシフトしても変化ないだろうが、いろんな意味で「落ち付いた世相」になるのではと感じている。グルメ・旅行の話題が半減し、便利グッズ・サプリのCMが半減したTV番組表を想像すれば、ボケ老人には好ましい環境であるだろうと思うところである。


木村花氏の訃報に思う

2020年05月26日 | 芸能

 女子プロレスラーの木村花氏の自殺の可能性が報じられた。

 原因とされるのは、同氏が出演したTV番組での挙措に対して寄せられたSNS上の誹謗・中傷によると観られている。産経抄によると平成29年の調査では、SNSに書き込みをする又は拡散に加担すると答えた人は全体では2.8%であったが20代では10.7%に達したとされている。従来から、頻繁にネット上に書き込みをする人は5%で統計学的には無視に値するとされていたが、攻撃対象となった人にとっては超然としていられるものではないであろう。本朝のTV情報であるが、不適当又は脅迫的な文言を使用したコンテンツに対して事業者は24時間以内にアカウントごと削除する義務を通信事業者に求め、違反した場合には極めて重い刑罰を与える国もあるという。風聞であるが、アメリカのエシュロンは、テロ等に関連する特定の字句が複数回使用された発信源(電波・有線を問わず)は自動的に監視対象とされるとされているので、ネット上の特定の語句を自動的に選別してアカウントを自動的に閉鎖するのは簡単な技術であると思う。今回の木村花氏の事象に関連して、自民・立民の衆院国対委員長がネット上の誹謗・中傷を規制する法整備で合意したと報じられているので、近い将来に何らかの罰則付き規制法が制定されることを期待したい。規制法に対しては「表現・言論の自由の規制・弾圧」との反対がなされるのは確実であろうが、芸能人の自殺が相次いだ韓国では「指殺人」とさえ呼ばれる行為は表現・言論の自由の美名で保護するに値しないものと思う。

 SNS上で誹謗・中傷をする人は、TVやSNSの画面は全て真実を映していると思っているのだろうかと疑問に思う。ニュース性の高い番組でも全体の脈絡を無視して突出した一部を切り取ることや、ドキュメンタリーと銘打った番組に「ヤラセ」と呼ぶ演出があることは日常茶飯事で、もはや常識と云っても過言ではない。木村氏の出演したバラエティー番組にあっても、悪役が必要であるために木村氏の言動を際立たせるための編集があったことは十分考えられるし、木村氏に対してそのように演技することを求めた結果であるかもしれない。出演者にあっても、他の演者と異なる存在感を示すために本質を隠した演技をしていることも考えられる。天衣無縫を売りにしているケンドウコバヤシ氏や藤田ニコル氏が、実生活では長幼に応じて敬語を話し中年女優も知らない食事マナーを身に着けている等、健全な社会性を持っていることは良く知られている。視聴者は、TVやSNSの画面は制作者の意図で色付けされたものであり、出演者の言動は虚像であることを、もっと理解する必要があると考える。