産経新聞の正論欄で、「軍事力の必要性を認める勇気を」と題する主張を読んだ。
論者は神谷万丈防大教授で、論旨は防衛装備移転3原則見直しの加速を求めるものであるが、《・・・平和と軍事を180度正反対の概念と捉えるのは間違っている。軍事力は平和を破壊する道具ともなり得るが、それを必要に応じて使わなければ平和を守ることができないのが現実だ」と云う点に集約されていると理解した。閑話休題。
現在、抑止力(基地攻撃能力)の拡充整備に関して反対する人が少なくない。反対の意見を読むと、「反撃力保有は先制攻撃に繋がる」という意見が少なくないが、そこには神谷教授が指摘する「平和と軍事の概念」が大きく作用しているかのようである。さらに日本において軍事・防衛を語る上で見逃せないのは、有識者を始めとする世相が、人間不信とりわけ政治家と軍人(自衛官)を信じないとの意識を底流としているようで、そこから「軍事力を持てば使いたくなるに違いない」との意見が生まれ、「だったら軍事力を持たせなければ良い」に発展しているように思えてならない。
一人では生きて行けない現代社会では多くの人と何らかの接点を持つことを余儀なくされるが、多くの場合、無意識のうちに周囲の人々の「善意の倫理観」を信じて生きている。電車に乗る場合には「運転者が正常であること」を信じ、信号のある交差点では赤信号で車が停止してくれることを疑わない。しかしながら話が政治家に及ぶと「国民の不利益になることを画策しているに違いない」となり、自衛官には「強力な武器を持たせれば戦争を始めるに違いない」を思考の出発点にしているかのように感じられる。
神谷教授は防衛力整備に勇気を持とうと提言されておられるが、日本にあっては勇気を求める以前に「人間・社会を信じる」ことから始めるべきように思える。社会・国家が「構成員個々の”餅は餅屋”状態」で平衡・機能していることを前提にするならば、例え政治家や自衛についても”餅屋”としての存在と主張に対して、もっと謙虚で理性的でなければならないと思う。
疑惑を誇張し、大臣の首を狩り、果てには安倍氏の命を奪う、・・・という”引き算の原理”は、人間・社会不信の暗い世相しか招かないように思える。
自分の最も不得手な形而上の問題であり、生兵法の自覚を告白して、終演。