もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

防衛費シーリングの先祖返り

2024年03月13日 | 防衛

 令和4年に策定された安保戦略3文書において、防衛装備の抜本的強化に着手し、向こう5年間で総額43兆円の経費を支出することとされた。

 計画策定時の為替レートは1㌦108円内外であったが、現在では150円程度に推移しているので当初計画の装備が調達できるのかと危ぶんでいたところ、木原防衛省が「必要な防衛力強化を(43兆円)範囲内で行うことが防衛省の役割」、鈴木財務相も「政府としてこの水準(43兆円)を超えることは考えていない」とそれぞれに述べていることが報じられた。
 為替レートの変動で円の価値が2/3に下落すればドル建依存度の高い自衛隊装備にあっては調達できる装備も2/3になるのは必定で、200発装備予定の長射程ミサイルも140発しか保有できないことになる。
 かっては、防衛関連予算には「対GDB比〇%以内」というシーリングが金科玉条として存在した。それを墨守しつつ自衛隊の装備を先進国並みに見せ掛けるために何をしたかと云うと、「正面装備は戦闘機〇〇機、イージス艦〇隻、ミサイル発射機○○基を国債で調達・保有するが、一般会計で賄う後方装備の弾薬や部品はシーリングを守るために手当てしない(できない)」というものであった。そのために部隊は苦肉の策として、可動航空機の何幾かを「部品取り専用機」にしたり、実弾訓練の回数を減らして凌がざるを得なかった。例えるならば、高価な車を親から買ってもらったが、自分の給料ではガソリン代が払えないために車は殆ど動かせないというケースに似ている。
 安倍政権下で策定された安保戦略3文書の質疑段階で漸くに装備の「質と量、とりわけ継戦能力や反撃力」まで踏みこんだ議論が交わされるように深化したと思っていたが、今回の木原・鈴木両大臣の発言を見る限りでは、安倍氏のテロ死もあってか円安事態にも拘らず「43兆円という新たなシーリング墨守」に先祖返りしてしまったように思える。

 安保戦略3文書の質疑に関しては、装備の抜本的強化のための量的議論で始まったが、当時の為替レートによって参考的に答弁した43兆円が示されると本来論じられるべき質・量は脇に置かれ、43兆円が独り歩きを始めてしまった。
 曰く《43兆円あれば「教育費を無料にできる」「医療費を減免できる」「脱炭素に転換できる」・・・》という主張が上がってきたが、何れも「日本国家が存在した上で」の前提に立つものである。防衛費支出は、それらの前提である国家存立を全うしようとするものであることを考えれば、経費の使用目的において両者は全く趣を異にするものであることを、国民は今一度考えなければならないように思える。


便益を知る

2024年03月10日 | 防衛

 原価・利潤意識の希薄な職に半生を送ったためであろうか。便益と云う言葉を知らなかった。

 ネットで調べると、「便利で、利益があるようにすること。また、そのさま。(精選版 日本国語大辞典)」、「便宜と利益。都合がよく利益のあること。(Weblio)」とあった。
 今朝の産経新聞「東日本大震災あす13年」の記事中、防潮堤の功罪を論じる一環として東大大学院の学生がある地区の「防潮堤建設計画に関する費用便益分析」という論文を書いて、便益から建設費や失われてしまう景観などの「費用」を差し引いた「純便益」が大きなマイナスになると試算しているとしていた。
 ある事象を数値化することで、損得勘定を定量的に示すので理解しやすい半面、一つの方向性を持たせるために数字を利用することも多いように思うが、今回の論述者は大学院生であるので、色眼鏡でなく真に学術的な手法で考察した末の結論であるように思うものの、便益や景観毀損費用の評価係数を知りたいところである。
 防潮堤で救える可能性の人命を何円の「便益」とし、損なわれる景観を何円の「費用」としているのであろうか。論文の指導教授は公共経済学が専門とされているので、それらについて数値化する手法は既に学会内では確立されているのであれば、是非とも国民の共通認識として広めて欲しいものである。
 自分のように数字や金銭感覚に弱い人間は、定性重視の感覚で「何億円かかろうとも、一人の人間でも救えるならば良し」と考えがちであり、ひいては「それが人類愛である」との独善に陥ってしまうが、公共経済学の立場に立てば「公共(国家)が存続するためには便益も制限すべき」という結論になるように思える。

 防衛力の整備に関しても、迎撃ミサイル1基の値段や装備数に関して甲論乙駁である。識者も「武力侵略劈頭における国民の犠牲を局限するための必要数」としか述べ得ないが、公共経済学の手法をもってすれば「〇〇人の犠牲で済むための所要数」を定量的に示すことができるのかも知れない。
 そうなれば、〇〇人の犠牲数を巡っての攻防は新たに起きるだろうが、少なくとも理性的な考察による質疑に変化し定性的な反論・金切り声は聞かなくて済むようになるのではないだろうか。
 最後に、本文は、出発点となる公共経済学を理解していないために起きた愚文であるかも知れないことを付言します。


老衰の復活

2024年03月07日 | 憲法

 メディアが伝える訃報で、再び”老衰”という言葉に接する機会が増えたように思う。

 昭和末期までは確たる死因が特定できない高齢者の訃報は”老衰”とされていたが、平成以降は”多臓器不全”と報じられていたように思う。
 両者の字面を自分としては、”多臓器不全”はボロボロの体でありながらも未練と執着を捨てきれない末期と感じるが、”老衰”からは「高僧の入定もかくや」の生き切った穏やか最期のように感じる。
 閑話休題
 人体・生命の不思議を最先端の研究者が披露しコメンテータが話を広げるNHKBSの「ヒューマニエンス」を良く視聴する。先日のテーマは”老衰”で、臨床研究者が高齢者施設生活者のデータを元に、興味ある仮説・意見を述べていた。研究者によると、施設から提供される1200kCal/日の食事を摂り続けても、個人差はあるものの多くの場合死の略5年前から体重(BMI)は減少し始めるそうである。
 体重変化と死期の関係について研究者は、科学的には立証されていないものの一つの事実・データとして更に研究を進めると慎重であったが、コメンテータは、脳・臓器の何処からか「もう、栄養は要らない」との信号が出されている可能性があるのでは?と応じ自分も同感である。

 一世を風靡した感のある”多臓器不全”を押しのけて”老衰”が復活した背景には、このような医学上の変化があったのだろうか、それとも、字面に対して自分と同様に反応する遺族や関係者の要求があったのだろうかは不明であるが、訃報において「死因」は大して意味を持たないことをメディアが漸くに理解した所為ではないだろうか。肉親以外の訃報に接して自分は、船村徹氏では「なみだ船」「男の友情」を、八代亜紀さんからは「なみだ恋」を、と反射的にその人の最も華やかだった場面を思い死因は読み飛ばすのが常である。

 自分自身、食欲も細り食事を作る妻の労力に報いるべく半ば義務的に完食しているが、なにやら体重が落ちてきた気配濃厚な昨今である。入定とはいかないまでも、老衰死との表現が相応しい死へのソフトランディングを目指して生きて行こう。


モルヒネの思い出

2024年03月06日 | 防衛

 昨日は防衛省(自衛隊)が全血型血液製剤を独自に製造・備蓄する計画に賛意を表したが、更に保有・備蓄を検討して貰いたいものがある。

 その前に、新兵教育後に配属されたのは米海軍貸与(後に供与)のPF(パトロール・フリゲート)であったが、当該艦は昭和17年建造後に一時ソ連に貸与されたもので、自分が乗り組んだ時点でも主機回転計の前後進表示はキリル文字で書かれていた。
 乗り組んで2年後、艦は退役・廃艦となるために乗員は搭載物品の整理に明け暮れていた時、艦の最後尾にある舵機室のビーム(桁)裏の目立たない箇所で防水紙に包まれた不審な2個の包みを発見した。開けてみると内部に液体が封入されたビー玉大のガラス容器12個(計24個)が収められており、同梱の使用説明書は「モルヒネ」と読め、イラストの使用法も添えられていた。推察するに、不良米兵が搭載品のモルヒネを掠めて隠したものであろうが、取り出す機会を失って、以後ソ連兵・自衛隊員にも発見されないままに20数年が経過したもののようである。班長・機械員長に報告する前に、世故に長け信頼できる海士長に相談したら「素行不良の俺とお前が見つけたとなると2箱以上あったに違いないと勘繰られるのは必定。黙って海に捨てろ」と云われ、成る程!!と思い、浮かび上がらぬようにワイヤーで鉄板に縛り付けて母港の海に捨てた。今はどうなっているのだろうか。水圧で割れただろうか?ワイヤーが朽ちてどこかに行っただろうか?それとも今も眠っているのだろうか・・

 冒頭に書いた「保有・備蓄」を検討して欲しいのは、戦傷者の苦痛を軽減するための「モルヒネ」である。戦争映画では、衛生兵が戦傷者にモルヒネ入りガラス玉を押し付ける(叩きつける)場面が描かれるが、ガラス玉であれば衛生兵がいない場面でも戦傷者の苦痛を軽減させてやることができる。
 モルヒネ=ヘロインであるので、保管・管理についてクリアーしなければならない事項も多いだろうし、素人が使用すればモルヒネの過剰摂取で傷者を死なせてしまう恐れもあるが、戦う・戦える自衛隊になるためには、戦闘に付随する傷者処置も世界基準にしなければならないように思う。


「全血」血液製剤を知る

2024年03月05日 | 防衛

 防衛省が、戦傷兵に対する迅速な救急救命のために、血液型に拘わらずに輸血できる「全血対応型血液製剤を独自に製造・備蓄する方針であることが報じられた。

 独自開発には、戦死の多くが失血死であること、令和4年の防衛力整備計画で「血液製剤を自衛隊が自律的に確保・備蓄する体制の構築」が定められていることが背景として挙げられているが、混乱した戦場で一刻を争う救命のためにも、是非とも実現させて欲しいものである。
 具体的には、血液製剤製造の原材料は自衛隊員からの献血で賄うものの、2~4℃の低温状態での保存期間が3週間程度であることから、製造の始期や製造量は今後検討するとされている。
 報道によると、日本では同種の血液製剤は薬事承認されていないそうであるが、これまで災害大国の日本で不必要とされていたのだろうか、さらに医療現場からの要求は無かったのであろうか、との疑念は捨てきれない。自衛隊員であれば、認識票に血液型を刻印しておけば対象者の意識の有無に拘わらずに血液型を知ることができるが、不特定多数の負傷者が殺到し、輸血用血液も払底し、中には意識の混濁した傷者もいるだろう災害現場を考えれば、医療の現場、特に救急救命士などからは全血型血液製剤の欲求はあったのではないだろうか。

 今回の血液製剤の製造・備蓄に関しては、防衛省の例外的運用を厚労省と協議するとなっているが、自衛隊の行動や運用に当っては法律の例外規定とされたものが多く、更には、有事にあっては必要と認識されている行為にあっても例外規定が制定されていないことも多い。これは、有事における自衛隊(軍隊)の任務・行動が如何に一般社会から隔絶したものであるかを物語っているように思える。
 有事法制と聞くと、直ちに集団的自衛権、日米安保の片務性の解消、敵基地攻撃能力の整備が脳裏をよぎるが、今回の血液製剤に関する薬事法の例外規定のように整備しなければならない法律が山ほどあるように思える。
 不勉強の所為で正解は分からないが、敵が国立公園内に橋頭堡を作った場合に陸上自衛隊は、樹木を折っても良いのだろうか?戦車の轍で現状を損なっても良いのだろうか?。