インドのカシミール州の帰属をめぐって、印パの武力衝突が伝えられた。
紛争は、26日にインド空軍機がパキスタン実効支配地域を空爆、翌27日パキスタンがインド実効支配地域に報復爆撃を行ったが、その際インド機2機・パキスタン機1機が空中戦で撃墜されたものである。冒頭に「インドのカシミール州」と書いたが、正確にはインド・パキスタン・中国が領有を主張して数度の衝突を繰り返した後、それぞれの軍隊が駐留して3か国が停戦ラインを挟んで対峙し、国境が未画定の状態にある地というのが正しい。改めてカシミール地方の帰属問題を顧みると、1947年にイギリスがインド半島における植民地政策を放棄して独立を認めた際に、半島内にあった565の藩王国はヒンズー教のインド、イスラム教のパキスタンのどちらかを選択することを求められた。ヒンズー教であったカシミールの藩王はインドへの帰属を表明したために、歴史的・法的に見ればカシミールはインドの州とするのが妥当であると思う。しかしながらが、カシミール住民の7割以上がイスラム教徒であったため、同年(1947年)には早くも宗教対立から第1次印パ戦争が起こったが国連の調停によりカシミールは印パ両国が実効支配することとなった。1962年に至り、チベットを併合した中国が唐突にカシミールの領有権を主張して中印国境紛争が発生し、占領地域を自国領土と宣言して印・中・パ3か国が分割してそれぞれの実行地域を支配することとなった。この事態を見たパキスタンは、1965年中国の支援を受けて第2次印パ戦争を仕掛け、支配地域拡大を実現した。1971年、パキスタンの弱体化を狙うインドは、カシミールと直接的な利害関係を持たない東パキスタンの独立運動に軍事援助を行って勝利し、東パキスタンは独立してバングラディシュとなった。この第3次印パ戦争と呼ばれる紛争も、根底にはカシミール帰属問題が影響していると見られている。このように、インド・パキスタン・バングラデッシュ建国の陰には国家を選択するために大移動した者、宗教的迫害を逃れるために難民化した者は1200~1500万人と推定されており、モーゼが率いた出エジプトなど足元にも及ばない規模である。
カシミールは、パキスタンの北部からインド北西部のインダス川上流にまがる山岳地帯で、標高8000m級のカラコルム山脈がありパキスタンとの国境には世界第2の高峰K2がそびえている。仏教の伝播経路としても知られ、三蔵法師(玄奘)もカシミール経由でインドに至ったとされている。局外者の自分にとっては、多くの血を流してまで領有を争う程の魅力ある地ではないと思うが、宗教的な感情を持つ印パ、チベット併合の正当性とインドの中距離ミサイル防衛を重視する中国、それぞれにとっては、面子以上に重要な地域なのであろう。今回の勉強を通じて教訓とすべきと思えるのは、ベトナム戦争・キューバ危機というアメリカの空洞が生じた時期と地域に、インドとの情誼を弊履の如くかなぐり捨ててでも唐突な主張と軍事行動をゴリ押しして既成事実を築いた中国の無法ぶりである。