もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

夏休みの宿題-2

2023年08月31日 | 憲法

 8月も最後。漸くにして夏休みの宿題の2枚目を描き終えた。

 タイトルを「ジュラ紀」としたが、イメージはNHKの「恐竜王国」から拝借した。
 最新の研究では一部の恐竜は羽毛に覆われていたとされるが、恐竜が変温動物であったことや血脈が鳥類に受け継がれているとされるので納得できるように思う。
 イメージは「ティラノサウルス」であるが、名前がどうしても思い出せずに、ネットで「肉食恐竜 最強」と検索して漸くに思い出すことができた。
 一般的に「知識は積み重なる」とされているが、この数式が当て嵌まるのは60代くらいまでであって、それ以降は残念ながら「年齢が知識(記憶)を奪う」のが現実であることを実感した。
 尊敬する友人からの受け売りであるが、手塚治虫氏が現役引退を決意したのは「フリーハンドで真円を描けなくなったこと」であるらしく、ノーベル賞作家の川端康成氏が70歳を過ぎて自ら命を絶ったのも、加齢によって流麗に言葉を操れなくなったせいであろうか。
 老境に差し掛かった才能豊かな人のその後は、「変わらずの力量を維持する」・「現実を受け止めて穏やかに引退する」・「才能の摩耗を受け入れられない」・・・とさまざまで、年齢の影響は個人差が極めて大きいとともに、受け取り方も様々である様に思える。

 「ジュラ紀」を描き終えたが、孫は既に「恐竜社会」から引退してしまったので批評すらしてくれないだろうが・・・。


「ジュラ紀」(F10)


世論と報道の変質

2023年08月30日 | 報道

 警察官の発砲が報じられたが、お決まりの文言は無かった。

 かっては、警察官の発砲が報道される場合には、最後に必ず「発砲の適法性」についての警察の見解や報道機関の意見の形で疑問符を付けてなされるのが定番であったが、近年ではそれらに触れることは殆ど無い様に思っている。
 犯罪が多様化・劇場化・狂暴化するとともに警察官自体への襲撃も多発し、更には制止の言葉が通じない外国人の犯罪が引きも切らない現状では、警官が身を守りつつ犯人を制圧するためには銃器を使用せざるを得ないことが漸くに理解され始めたのではないだろうかと思っている。
 また、終戦記念の日前後に靖国神社を参拝する閣僚に対して「公人としてですか私人としてですか」という質問が投げかけられるのも定番であったが、ここ2、3年この質問を投げかける映像を見かけることが無くなったし報道もされなくなったとも思っている。
 自分は、警官の安全よりも犯人の生命を優先するかのような報道や、政治家(公人)の私的側面を云々する一方で靖国参拝には中韓に阿るかのように公・私人の別を追及することを不快に思っていたので、近年の報道姿勢については漸くに正常になったと思っている。
 報道の変質は何故に起きたのだろうかと考えれば、報道機関が自社独自の「報道コード(code)や理念を持たない」ためと考えても良いのではないだろうか。報道コードで警官の多少の犠牲よりも対象者(市民)の安全を最優先すべきとすれば「発砲の適法性」の質問・追及は譲れず、閣僚の靖国公的参拝を違法とするならば「公人としてですか私人としてですか」という質問は避けて通れぬように思える。
 では、報道機関の取材・報道の基準は何だろうかと考えれば、「世論への迎合」を全ての基準としているのではないだろうか。世論が望むものを望むベクトルで報じることは、比較的に容易・安易であるとともに、報道の責任も世論に転化できる。好個の例は朝日新聞が行なった従軍慰安婦の強制連行報道である。入念に取材すれば嘘と分かる吉田清治氏の証言を「正」と報じたのは、事の真偽よりもスケープゴートを求める世論に迎合することを優先したためであり、20年間以上も垂れ流し続けた虚を僅か1回の訂正(記事取り消し)で済ましたのは、「読者がそう望んだから」という開き直りであったと思っている。

 明治初期にあって新聞が、固陋制度の改革と開明思想の啓蒙に指導的・牽引的な役割を果たしたとされており、リアルタイムの映像が提供できるテレビは世論の形成に大きく影響するとされるが、現在のように新聞・テレビを始めとするメディアが挙って世論に忖度する以上に迎合するかのような姿勢は如何なものであろうか。


立民泉代表の外遊に思う

2023年08月29日 | 野党

 立民の泉代表の外遊が報じられた。

 泉代表は、令和代表就任後初の外遊で、ベトナムを訪問してベトナム共産党の中央組織委員長などとの面会が予定され、旧民主党がベトナム共産党との間で交わした政党間交流の覚書を再構築するとされている。
 次いで来月中旬にはアメリカを訪問して、政府や議会関係者と面談して同盟関係や経済安全保障などで意見交換するともされている。
 代表に就任して2年間も外遊していないことに驚かされるが、兎にも角にも外遊して外国が日本を、更には立憲民主党をどのように評価しているのかを肌で感じることは日本の将来に有益であると思う。泉代表も出発前に「自分自身が政権を担った時にも外交関係がうまく働いていくように取り組む」と所信を述べているので”その意気や良し”と思う反面、ベトナムで政権(行政)中枢との面談が予定されていない事を勘繰れば、訪問の目的が政党間の交流事業と云う点を割り引いてもベトナムが立憲民主党を「次期政権担任可能者とは見ていない」ことを示しているように思える。
 訪問国の冷ややかな視線・対応が日本における立憲民主党の力量を如実に示しているとしても、それを感じることは、日本で「先生」と呼ばれことに満足しているよりは遥かに得るものが大きいように思う。カエサルは「人は見たいものしか見ない」と述べているが、泉代表にあっては「意に添わぬもの・見たくないもの」であったとしても、北ベトナムは如何にして南を統一できたのか?、南は何故国を失ったのか、統一・不統一の何れが良かったのか?、スプラトリー諸島などの防衛をどのようにしているのか?・・・をつぶさに感じて欲しいものである。2日の外遊では無理かと思うが。

 泉代表の外遊を産経新聞は「野党外交」と報じているが、些かに奇異に感じる。自分の考える外交とは、「国民の負託を受けた政権の思惑に基づく外国との関係」が外交であって、現在の野党の外国訪問は、見聞を広めたり、人間関係の開拓を目指す外遊とするのが正しい様に思う。
 過去には、野党であった公明党が首相の親書を携えて日中国交回復の端緒を開いた「野党外交」と呼べるものがあったが、政府・国民の負託を得ない泉代表が相手に「トラスト・ミー」と叫んでも、政府や国民を縛るものではない。
 ともあれ「松川訪仏団」の顛末で世間の目は厳しいが、泉代表にあっては臆することなく初期の目的を達して欲しいものである。必要ならば、観光地に出かけるのも「有り」と考えている。


同化しないイスラム

2023年08月28日 | 歴史

 産経新聞に寄稿された麗澤大学客員教授の飯山陽氏の記事で、記憶しておくべき数字を教えられたので忘備録的に書き留めておくことにした。

 フランス国立統計経済研究所(INSEE)が今年(2023年)3月に発表したデータで《フランスの総人口6,760万人のうち、移民1世10.3%、移民2世10.9%、移民3世10.2%となっており、既に国民の1/3が移民系である。また、2020年にイスラム系移民を対象とした「フランス法とイスラム法のどちらを優先するか」と云う世論調査でイスラム法を優先すると回答したのは、35歳以上25%、25~34歳42%であるのに対して25歳未満では74%にも達する》とされていた。
 教授は《イスラム法は男女平等や人権においてキリスト教国や西側自由主義諸国とは大きく異なっており、既にフランスはキリスト教的価値観を共有する国とは呼べない現状》となっているとし、その原因は《フランスで生まれたフランス人である若い移民ほどイスラム的価値観を尊重する度合いが高いことは、移民も世代を経れば同化するだろうという楽観論が裏切られた》結果であるとし、さらに《同化しないイスラム・コミュニティに依る地域文化の破壊が顕著となった10年前にはメルケル首相(独)やキャメロン首相(英)は既に移民政策の失敗を認めているが、最近ではイタリア・オーストリア・スイス・デンマーク指導者も移民政策の変更を余儀なくされている。》と論を次いでおられる。

 ヨーロッパ諸国はキリスト教的博愛・人道主義に基づいて移民を寛容に受け入れたが、その移民で固有文化が侵されるという「軒を貸して母屋を盗られる」以上に、イスラムテロに怯える状態になっている。それに伴って各国では移民排斥の風潮が高まり国粋主義政党に議席を与えるという状況になっているが、移民の割合が1/3近いフランスでは遅かれ早かれイスラム政党が議席・発言権を持つ日が来ることだろう。そうなれば、イスラムが忌避する偶像崇拝の象徴としてルーヴル美術館の名画が収蔵庫に納い込まれるのもあり得ない話ではないように思える。
 日本でも、開明的な博愛主義者がシリア難民などに関してヨーロッパ並みの受け入れを主張していたが、今にして思えば「政府の不作為の功績」と呼んでも良い様に思える。しかしながら、労働力確保のために移民や在留枠を拡大しようとする現在の動き、「移民も世代を経れば同化するだろうという楽観論」によって「母屋を盗られない制度設計」であって欲しいものである。


ルーベンスを眺める-3

2023年08月27日 | 美術

 残暑の日曜日、ルーベンスを眺めて蟄居することとした。

 本日添付冒頭のタイトルにある「クビド」をWikipediaで学んだ。
 《クピードー(Cupido)は、ローマ神話の愛の神。日本語では長母音を省略してクピド、アモール(Amor:ラテン語)とも呼ばれるが、一般的には英語読みのキューピッド(Cupid)で知られている。
 ギリシア神話のエロスと同一視されるが姿は異なり、恋の矢(クピドの矢)を撃つ気紛れな幼児として描かれることが多い。
 クピードーは、ラテン語では「情熱的な欲望」や「欲望」を表し、遡ると、インド・ヨーロッパ祖語 で「震える、欲望する」を表す「kup(e)i」を語源としている》とされていた。
 成る程!!。恋愛には必要な「情熱or欲望」を語源とする「キューピッド」の事かと納得したので、今後は訳知り顔で「”クピド”と気障に云って見るか」と思ったが、これ以上鼻つまみ者になることもあるまいと自重することにした。
 なお、クピドやアモールは小惑星にも命名されているらしいことも併せて知ることができた。


「ウェヌス(ビーナス)と鏡を持つクピド」(所蔵先不明)


「健康」(デトロイト美術館)


「イサベル・クララ・エウヘニア王女」(ウイーン美術史美術館)


[茨の王冠」(エルミタージュ美術館)


「聖ゲオルギウスと竜」(プラド美術館)