もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ブルース・ウィリス氏の引退に思う

2022年03月31日 | 芸能

 ハリウッドスターであるブルース・ウィリス氏の俳優引退が報じられた。

 引退の理由は痴呆症・失語症とされているが、引退自体は俳優業からだけで社会生活を含めた完全引退ではないように思われる。
 失語症の程度は不明であるが、当意即妙のスピーチが出来なくなったり、正確な言い回しが出来なくなったことであるとするならば、俳優にとっては致命的であろうが、正確な表現・語彙に乏しい自分などは、生まれついての失語症と診断されてもおかしくないが。
 ウィリス氏の老化公表は、クリエイティブな才能に恵まれ、かかりつけの主治医ではなく専属・お抱えの医師による健康観察や治療を受けていたであろうハリウッドセレブにしても、老いによる鈍化から逃れることはできなかったのかと、身につまされる思いがする。
 ウィリス氏の映画は、本邦公開作品の殆どを見ていると思っているが、私生活に関してはデミ・ムーア嬢との結婚・離婚くらいしか知らないのでウィキペディアを一瞥すると、ドイツ駐留米軍人とドイツ女性のもとにドイツで生まれ育ったためにドイツ出身となっていたが、父親はイングランド・オランダ・フランス・ウェールズ・アイルランドの血を受け継いでいるとされていることから、ウィリス氏はまさに人種の坩堝に育ったアメリカ人中のアメリカ人であるように思える。
 日本では、「ダイ・ハード」で大ブレイクするまではウィリス氏を「ブルース・ウイルス」と呼び、米国第40代大統領のロナルド・レーガン氏も「ローガン」と呼ばれていた。古くは、リンカーン大統領を「リンコルン」、ショパンを「チョピン」と呼んでいた時代もある。
 ウクライナ政府は、首都「キエフ」はロシア語読みでありウクライナ語の発音である「キーウ」と呼称することを日本に求めている。変革を嫌う外務省は「グルジア⇒ジョージア」時と同様に呼称・表記の変更に消極的とされているが、防衛省はいち早く併記に踏み切り、報道機関でも併記方式に移行しつつあるようである。

 本日の産経抄では、韓国がいち早く「キエフ⇒キーウ」に変更したのは、日本よりも地名の呼称変更が重要な政治的メッセージであるとの認識が強いためとしている。そう考えれば「竹島⇒独島」「日本海⇒東海」の主張もその認識に立っているのであろうか。
 そんなこともあってか、「ジャパン⇒ニッポン」に拘らないどころか、「日本」の読み方すら「ニッポン・ニホン」どちらでもよいとする日本では、自治体の合併や団地の命名に際して古来からの由緒ある呼称を捨てて無味乾燥な地名に変更する例が多い。
 かっては、都市名を聞けばどの都道府県かが推測できたが、平成の大合併以降は「市の名前が所在と歴史を示さない」例が増えてしまったと嘆いている。


侵略と進撃

2022年03月30日 | ロシア

 ネット上で酒井信彦氏のコラムを見た。

 氏は、ロシアのウクライナ武力行使を伝える2月25日、多くの新聞が見出しで「侵攻」ないしは「侵略」と表現している中で、朝日新聞のみは「(親ロ派地域への)進撃」との語句を使用していたとされている。
 酒井氏の朝日新聞嫌いは有名であるので事の真偽が不明であるが、もし真実であるならば「相当ニュアンスが違うなァ」と感じて侵攻と進撃を調べてみた。
 ウエブ辞書では「進撃:軍を進めて敵をうつこと。また、積極的に攻撃すること」、「侵攻:他国を攻め、その領土に侵入すること。侵犯。進攻」とあった。正確な理解ではないだろうが自分では、武力行使の正邪を問わずに、「進撃」とは武力行使する側がその正当性を内包して使用するもので、侵攻は武力行使の不当性を込めて受け手が使用する語句であるように思う。そのことは、現在では侵略戦争と一般的に定義される大東亜戦争にあって、国内新聞は戦況を伝える多くの場合に「○○に進撃」の見出しが躍る紙面であったのを映像で見た記憶がある。
 酒井氏は、朝日新聞の社説ではロシア=侵略者を思わせる主張があったとも続けられているが、トップ記事に「進撃」を使用したのは、ロシアのみが承認した「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」における親ロ住民の保護・解放というロシアのプロパガンダを正義とする認識のもとに、使用された可能性もなしとしない。朝日新聞がロシアに正義ありとして確信犯的に「進撃」としたとしても、福島原発事故における吉田証言に対する誤(嘘)報を、シレっと読解力不足と強弁した過去を振り返れば、酒井氏の指摘も「蛙の面に小便」ほども響かないのだろう。

 それ以降の朝日新聞の報道を拾い読みする限り、日本国内のロシア・プーチン感に沿った報道であるように思えるが、慰安婦強制連行の火付け役と糾弾され、第3者委員会の指摘を受け入れる形で報道姿勢や偏向報道を正すとした土下座も、社外向けのパフォーマンスで社風や記者の世界観は従前のままであるのかもしれない。
 以上、酒井氏の指摘を真実として論を進めたが、万が一事実と異なる場合には本記述を削除致しますので、ご教示をお願いいたします。


政策提案型野党とは

2022年03月29日 | 野党

 28日の参院決算特別委員会で共産党の田村智子議員の正論が報じられた。

 田村議員の質問の形を借りた主張は、「国立大学が独立行政法人化されて以降、必要予算が削られた結果、論文数が減少するとともに任期付きの非正規教員が急増しているデータを挙げて、外部研究費確保に軸足が置かれて短期間に成果が挙がる研究に偏り、時間をかけた質の高い研究が阻まれている」との趣旨と報じられている。
 大学における教育と研究に目が暗いために、その主張が的を得たものか否かを判断する能力を持たないが、この提案に対して末松文科相が「重要な指摘を戴いた。予算も戻していかなければならない」と応じたところを見ると、指摘と提案は正鵠を射たものであるのだろう。さらに田村議員の「(研究の)トップを育てても科学技術全体の発展には繋がらないらない。裾野を広げないと」との提案には与党委員から「その通り」との応援の声が飛んだともされている。閑話休題。

 NHK・BS「コズミック・フロンロ」を良く視聴する。科学的素養に欠ける自分であるので完全には理解できないが、自然科学の分野では日本の天文学者が、世界に先駆けてビック・バン以降の宇宙に関する新しい発見や推論モデルを提示していることが紹介されることも多い。半面、江崎ダイオード以降世界をリードしてきた半導体等の分野では、国際情勢の変化によって半導体先進国からの供給が滞って、国内の生産ラインが止まる等の状況が報じられるし、コロナ禍では感染症防疫等の公衆衛生に関して、世界基準から大きく遅れていることも露呈した。

 田村議員の主張を自分なりに解釈すると、大学における研究(研究費の支給)は「金にはならないが軍事転用には結びつかない科学」に手厚いのではないだろうか。これは日本学術会議の軍事研究忌避の成果であり、それに導かれた名古屋大学平和憲章がリードする教育行政・大学(学問)自治の結果であるように思う。田村議員の主張を突き詰めれば、本人の意思はどうであれ菅首相(当時)の学術会議会員候補の任命拒否正当化に他ならないように思える。

 残念な点は、田村議員の提案が予算成立後の決算委員会でなされたことである。決算委員会の趣旨は早くても次年度予算案、大方は再来年度以降の予算案に反映されるものと理解している。願わくば、野党が総力を挙げて今国会の予算委員会で提議し、2022年度予讃案修正を実現して欲しかったように思う。
 それこそが、政策提案型野党の姿であると思うのだが、立民諸氏には理解できないだろうとは諦めている。


桜・SAKURA考

2022年03月28日 | 野党

 東京で桜が満開と報じられた。

 かっては、この時期を迎えると新聞等で歳時記的に使用される引用句があったが、近ごろはあまり目にすることもなくなったように感じる。無学に等しい自分でも知っている語句を思い出すままに記すと。
・「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず(劉廷芝:代悲白頭翁」
 自然災害等によって人々が大きな災難を被った際の慨嘆に使われていたが、今年は例年以上に身につまされる。昨年の桜の時期には、武漢コロナという禍はあったにしろ、プーチンという狂人は未だ本当の牙を剝いてはいなかったし、世間も大国ロシアが無法な戦争を仕掛け、ウクライナ国民が死生を彷徨う事態など思ってもいなかった。
・「世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし(在原業平:古今和歌集)
 ちょうど花見の時期に長期行動すると、母港に帰投した時には既に葉桜ということがあった。また、内地巡航という幹部候補生学校を卒業した初任幹部の慣熟訓練のための日本一周航海では、桜前線を追う航路となって、各寄港地で花見を満喫できたこともあった。「たかがサクラ、されど桜(花見酒)」と一喜一憂したものである。
・「春の海 ひねもすのたり のたりかな(与謝蕪村)」
 舞鶴勤務では機関職域の自分も艦橋当直(操船指揮)を経験した。冬季の寒風に尖った波頭に比べ、黄砂に煙った春の海は穏やかで、避航すべき・注意すべき目標が無い時には不謹慎ながら立ったまま眠気に襲われるほどで、「のたり のたり」が実感できた。しかしながら、佐世保勤務では春と黄砂は天敵で、エンジンの吸気系統に装備されている「デミスタ装置」の目詰まりと洗浄に気を配らなければならず、早く黄砂の季節が終わることを願ったものである。

 「年年歳歳花相似たり」とは言え、ポトマック河畔の桜は多くの米国人の目を楽しませるが、日本・ウクライナ外交関係樹立25周年として22都市に1,600本植樹されたとされるウクライナの桜は戦火に蹂躙され、千島桜(タカネザクラの変種)は日本人が目にすることも叶わずにひっそりと咲くのだろう。
 桜、さくら、SAKURAに関する雑感を綴ってオシマイ。


ウクライナ政治決着に思う

2022年03月27日 | ロシア

 「ウクライナ市民を救うために政治決着を」という声が日増しに高まっているように思われる。

 戦前の日本では、多くの国民、とりわけ知識人の多くが国策を論じ・挺身する場合は「死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し(司馬遷)」を信条とし、学徒兵を含む多くの特攻隊員は、日本国の悠久のために一身を鴻毛の軽きとして捧げた。
 しかしながら、戦後においては「一人の生命は地球よりも重い」が日本基準になったようで、福田赳夫内閣は1977(昭和52)年のダッカ事件で超法規的処置としてハイジャッカーの要求を容れ身代金 600万ドルを支払うとともに収監中の赤軍幹部等6名を釈放・出国させたが、この判断は、「テロ犯とは取引しない」が世界基準で無かった当時でも、日本=弱腰との非難が浴びせられたように記憶している。
 現在、ウクライナに政治決着を求める声もダッカ事件第二章の感が深いが、この背景には日本が連合国(アメリカ)占領から復興し得たという経験もあるように思える。一般的には勝者の占領は懲罰・簒奪が主で、そのことから言えばアメリカの占領政策は世界史上でも極めて寛大であったとされているが、日本から「魂」を抜き去ったことは懲罰以上の重きをなしているのではないだろうか。
 先日のブログで「ウクライナの歴史はロシア帝国とソ連の簒奪・苛斂誅求の歴史」と書いたが、身命を賭して抵抗を続けるウクライナ国民の平均的な意識は「今、100人の生命を救うために政治決着として寸土を割譲することは、その地に暮らす数万人の命と将来を見捨てることである」と云うものであろうと推測している。
 ウクライナに一時的な領土割譲を認める形で停戦し、臥薪嘗胆して将来的に領土回復を目指すというのは、寛大(一面では)なアメリカ占領を経験則としているから言えることで、既に戦後におけるロシア人との入れ替えに備えて市民の強制移住に着手していることを思えば、プーチン・ロシアの支配地域における将来は明らかであるように思える。

 自分には、抵抗するウクライナ軍民と大東亜戦争時の特攻隊員の心情は、同じであるように思えてならない。
 かって衆院議員であった丸山穂高氏は、「歴史上、戦争に由らずに領土回復した例はない。北方領土回復のためには対ロ戦争しかない」と主張した。世界的に見て正しいと思える分析・主張も、世界史的に稀有な「戦争に由らない沖縄復帰」を経験している日本では囂々たる非難を浴びた。
 国を守ること、国を失うこと、いま最も真剣に考えなければならないのは、日本人であるように思う。