もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ヒグマの生態を学ぶ

2024年12月28日 | 世相・世論

 本ブログでOSO18に関する思いや佐竹秋田県知事の”熊送る”発言を題材とした。

 採り溜めた録画中”アナザーストリー”で、エゾヒグマの生態についての動物学者の解説を知ることができた。1学者の主張する説には多くの異論があるのが一般的であるので、その解説が学会でどの程度支持されているのかは不明であるが、無学の自分にもナルホドと思えるものであった。
 番組によると、ヒグマは雑食性とされるが北海道のヒグマは明治初期まではエゾシカなどを補食する肉食系雑食であり、消化器官も肉食に近い構造であるそう、明治以降の北海道開拓に伴う入植者がエゾシカ等を乱獲したために、それ以降は已む無く草食系雑食に移行したそうである。また、ヒグマは母親の採餌行動を継承するために、母親にエゾシカ・家畜・人間の補食経験が無いと子供もそれらを餌として認識しないらしい。昭和初期に道北で2・3年周期で襲撃の時刻や方法、遺体の運搬方法が同じ人喰熊が出現したが、原因としては母熊が土葬死体を食べて人間が餌であることを学んで人喰熊となり、それを継承した子熊が成獣となり人喰熊になるという連鎖の結果であろうと推論されていた。
 OSO18は60頭以上もの家畜に危害を加えたが人間は襲わなかったことも、何らかの原因で家畜は餌であるとは認識したものの人間は餌と云う認識が無かったのかもしれない。
 先日のブログでは、OSO18が雑食系から肉食系になったという動物学者の意見に「たかだか百年で雑食動物が肉食動物に進化(変化)するのは疑問」と書いたのは自分の早とちりで、OSO18はヒグマ本来の食性・採餌行動に戻った(先祖返り)というのが正解であるらしい。

 秋田県が公開した抗議メールに「熊を送るなら送れ。野蛮人の秋田県人と違う自分は立派に共生してやる」と住所もないままに書かれている。しかしながら、番組に出演している動物学者や札幌市の担当者からは、エゾヒグマの生態から考えると人間と共生することは不可能で、それぞれのエリアを区切って共存することが精一杯であろうと述べられていた。
 上記抗議者のように動物可愛さのあまりに、野生動物にまでペットと同じ地位を広げようとする人がいるが、「やはり野に置け蓮華草(注)」ではないだろうか。

(注)「やはり野に置け蓮華草」のネット解説
 播磨(兵庫県)の俳人滝野瓢水が、遊女を身請けしようとした友人を諫めた句「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」に由来し、自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じように、遊女は色町にいてこそ美しく見えるという意味。


”熊送る”に思う

2024年12月20日 | 世相・世論

 秋田県の佐竹知事の「熊送る」発言が話題である。

 発言は、スーパーに侵入・居座った熊を殺処分したことに対する県外からの苦情対応に関して、17日の県議会予算特別委員会における県議からの「毅然とした対応要求」に対して、《私にもし(苦情の電話が)きたら、完全に相手を威嚇する。お前のところに熊をを送るから住所を送ってくれと。こうすると相手が電話を切ります》と発言していたとのことである。
 佐竹知事と云えば、豪雪時の安易な災害派遣要請、四国料理は貧乏くさくて旨くない発言、何よりもイージスアショアの県内配備反対、等を記憶しているので、全体像としてはオール沖縄・玉城知事に近いイメージで良い印象は持っていなかったが、今回の「熊送る」発言には「いいね!」としたい。
 今回の苦情電話では30分間に及ぶケースも有るとされ、一昔以上前の距離・時間制の電話料金ならば数千円以上もかかったであろうが携帯電話での通話料金ゼロサービスによって、クレーマーは延々と苦情を述べたものであろう。思うにクレーマーは、勤務時間内にも長時間の無駄話ができる層であろうが、通話先の県庁職員にすれば溜まったものではないだろう。
 「熊と移民を迷惑対象として同列に扱うな」とのお叱りを覚悟しているが、不法移民の流入に音を上げたアメリカの各州(テキサス・アリゾナ・フロリダなど)は「不法移民の流入も無く、彼らに寛容であるべきとする地域(シカゴ・ニューヨーク・ワシントンDC)に飛行機で・バスで不法移民を運び込んだことがある。特に副大統領公邸前やセレブ・富裕層の別荘地などをターゲットとしているために、民主党政権への揺さぶりだけが目的であるかのように報じられているが、影響・被害の無い地域から理想論を主張する者に対して「現地の痛みを知ってから云え」という発想では、佐竹知事の発想と似通っていると思う。

 OSO18が射殺された時、自分もOSO18だけは生きながらえて欲しかったと書いて、お叱りを頂戴したことがあるが、自分の場合は「罠にもかからず、監視カメラもすり抜ける」という巧緻(高知?)な個体が、更にどのように進化するかを観たかったためである。OSO18の最後は、逃げることもせず座り込んだ姿勢のまま、狩猟免許を取得したばかりの新人ハンターに撃たれたとされている。
 死後の解剖で胃袋は空であったとされ、動物学者から「長年の肉食習慣から、熊本来の雑食機能を失ったのでは」との推論を読んだ覚えがあるが、肉食動物と草食・雑食動物間には、消化のための器官や機能が大きく異なり、そのために数百万年かけて分化・進化であろうことを思えば、単に数年の嗜好の変化でそうなるのかと疑問を持っている。
 論旨が変わってきたが、”熊送る”はカスハラ対応のキーワードに変化・洗練されるよう祈って、終演、


貸金庫事件に思う

2024年12月19日 | 世相・世論

 本日は、嫌になるほど貧民の、繰り言・嫉みである。

 三菱UFJ銀行の貸金庫窃盗事件が予想通りの展開となっている。
 11月23日に事件が明らかになった際には、被害者60人、被害額十数億円とされていたが、一昨日の会見では事件発覚後さらに数十人から被害申告が為されたので、被害額も増えるだろうとされていた。
 被害者数や被害額の増加は、貸金庫の性質上やむを得ないもので、貸金庫利用者が「これ程の金額の物を、これだけ盗られました」と申告すれば、銀行側としては「分りました」と答えるしかないだろう。
 会社員であった時、製品データ保全・保存のために会社契約の貸金庫を利用した経験しか無いので、以下は憶測にしか過ぎないが、おそらく個人契約の貸金庫については将に宝箱状態ではないだろうか。盗難予防のための貴金属保管は理解できるが、報道される現金被害についてはハリウッド映画を参考にすれば金融機関に預け入れれば「足が付く」種類のものではなかろうかと推測できる。
 貸金庫の容量から数千万を超える現金格納は無理であろうと思うが、それでも貧民からすれば目の玉が飛び出る額である。
 興味深いのは、事件発覚後に申告した人の多さである。勿論、銀行からの通報で確認・精査して盗難を知った人が大多数であろうと思うものの、ごみ焼却場で多額の現金発見が報じられると、北海道から沖縄に至る全国から持ち主が名乗り出るご時世、些かの便乗者が含まれているのではないだろうかと思うのは、下種の勘繰りであろうか。
 会見では、窃盗犯が40代女性行員と明らかにされたが、彼女が盗品を換金する術を知っていたのだろうかとの疑問が湧く。これまでの金融機関における女性行員横領の背後には男の影がちらつくので、今回も換金ルートを持っている手引き役・指南役が存在するのではないだろうかとも疑っている。

 マイナンバー制度導入の際、資産・財政状態の個人情報が丸裸になるという反対意見があった。隠すべき財産とて無いガラス張り課税の人生では自分の経済状態が個人情報と思ったことも無かったが、今回の事案を観て「多くの人が貸金庫に頼らざるを得ない程の資産家・金満家」であったのかと、将に打ちひしがれている。
 今回の事件によって思い出の貴金属などを失った人には同情するものの、現金の保管を主張する人に対しては、審議・審査の際に国税庁職員の同席が必要では?と悪態をついて、終演。


集合住宅作法

2024年02月26日 | 世相・世論

 集合住宅での生活を修行中である。

 これまでは、狭いために1戸建てならぬ半戸建てと自虐していたが、それでも両隣に対してあまり気を遣うことも無く生活していた。
 また、集合住宅での生活経験は、官舎が漸くに整備された昭和末期に2回経験しただけで、それとても入居者は全て同業者、少ない予算で建てられたための薄い壁床を通して隣接の生活音は筒抜け、更に夜勤明けで帰宅する者、早朝に出勤する者、警急呼集で深夜に出勤する者、また居住者の大半が子持ちで特に幼児が部屋を運動場代わりに走り回る音、等々、いわゆる騒音は常であった。しかしながら「相見互い」「明日は我が身」との認識共有の故に騒音(生活音)に関するトラブルはなかった。
 今回の転居で実質的には初めて集合住宅で生活することとなったが、生活音による軋轢は相当なものであるようである。エレベータや掲示板には生活音に対する注意が張られ、隣家への挨拶時には「子供が小さいので床に防音対策しているのですが・・・」、「子供の部活の都合で22時以降に洗濯するのですが・・・」、「夜勤なので・・・」と、全て生活音に対する陳謝・要望が添えられた。
 自分にも、集合住宅住まいに慣れた娘から、「ソット歩くこと」「靴下/スリッパを履くこと」・・・の注意が宣告され、椅子などの諸々の足には靴下?を装着、・・・と全て生活音局限のための措置が要求された。
 現在、忍び歩きの習慣を会得すべく、急がず/すり足移動を修行中であるが、まるで盗人の初等教育もかくあるかとの思い、第一鉄板の上を走り回る生活が長かったために一朝一夕に「忍び歩き」は会得できそうもない。

 階上から子供の駆ける音が聞こえても「元気だな。頑張れ!!」、深夜のドア音にも「これから仕事?大変だな!!」と受け取っていた自分、通風機の音、外板に当る波の音、エンジン音の中で生活し眠ることが常であった自分は、やはり世間様とは別の空間に生きていたもののようである。
 ともあれ、隣家との騒音トラブルを回避するために一日も早く集合住宅の作法に慣れる必要に迫られているが、寝巻のまま新聞を取りに行くことができた朝は、再び帰ってこないだろう。


妬み、嫉み、僻み

2024年02月25日 | 世相・世論

 産経抄子が野坂昭如氏の名言を紹介している。

 敬愛する野坂氏は《コラムを3つの「み」で書く。妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)、僻み(ひがみ)だ》と喝破されているそうである。
 コラムとは呼べない拙文であるが、振り返ってみると、公憤・提言の体を装ってはいるものの、将に3つの「み」のオンパレードである。
 恐らくであるが、テレビに代表されるマスメディアにあっても、識者・コメンテータの発する起床転結や思考過程の説明を要しない短いコメントの裏側には、3要素が潜んでいる可能性も有るように思える。
 アジアカップ 準々決勝の対イラン戦敗戦の原因が、性加害訴訟で伊東純也選手が代表を外れた穴を埋められなかったとの指摘・分析に対して、「所詮、球蹴り遊びだろ。女性の人権の方が大事」とコメントした人がいるそうであるが、彼の真意と発言の裏側は、女性擁護発言は真の女性人権擁護者である故なのか?・サッカー代表戦を「球蹴り遊び」と一蹴する背景には、もしかしてJ-リーグを目指しながらも挫折した少年期の嫉みがあるのではないか?・運動能力に秀でた人に対する僻みが言わせていないか?。等々、斜に見る必要なしとしないように思える。

 SNSが無く市井の個人が意見を述べることが困難な時代には、3つの「み」は自分の耳目の届く範囲に限られていたが、SNSの普及で縁もゆかりもない人への中傷や誹謗という形で際限もなく範囲を拡大している。
 3つの「み」は、通常《頑張れば自分も肩を並べられる(だろう)・手が届く(だろう)》と思える対象に向けられるもので、容姿・体躯・金銭・知的能力・運動能力・・・全ての点で非の打ち所が無く常人とは懸け離れた大谷翔平選手に対しては、誰しも3つの「み」を感じていないように思える。

 わが半生(既に全生ともいうべきか?)を振り返っても、全ての行動は「3つの「み」に衝き起こされていたように思える。いや、大半の人がそうであり、社会・文明の進歩の原点が「み」を出発点とした競争によって生み出されたといっても良いのではないだろうか。その証拠にソ連のコルホーズ政策は競争の原点である不平等、言い換えれば3つの「み」を根絶する究極の政策と喧伝されたが、惨憺たる結果に終わった。
 3つの「み」は人間の業であり表に出すのは慎まなければならない反面、内心に押し隠した「み」こそ、文明発展の原点であると結論して「終演」