アイマスクを着け1週間の視覚障害者体験をした東京社会部・萩尾信也記者(54)のリポート「ともに歩く・目の探訪記」(今月、8回)で、手引き(誘導)した2人の記者が視覚障害者のサポートについて考えた。視覚障害の取材経験が豊富な点字毎日部・野原隆記者(49)と、今回初めて手引きを経験した大阪社会部・平川哲也記者(38)。
◇もっと知りたい 相手、障害=平川哲也(大阪社会部)
「少し黙れ」。いら立った萩尾の声は、野原から手引きを引き継いだ朝、電車の中で聞いた。知ってはいたのだ。手引きの時、萩尾は左手で私の右腕に触れる。階段などの障害物を、白杖(はくじょう)で検知できるよう、正面に誘導する。説明は簡潔に「右」「左」がよい。だがマニュアル本で得た知識は、緊張でかき消される。手引きは冒頭からつまずいた。
私の右腕は力んでいた。車道から段差のある歩道に移る時、斜めに上ろうとした。白杖は段差をとらえず、萩尾はつんのめった。電車では「右上にある」と伝えたつり革が左上にあった。向き合って立って私から見て右は、萩尾の左だった。
ともに歩き、視覚障害を考える。だがその目的は、冒頭の衝突で戸惑いに変わった。みえてきたのは「視覚障害」でなく、萩尾というむき出しの人間だったからだ。途中で「置いて帰ってやる」とも思った。募る焦りを解いてくれたのは、2人で訪ねた「東京都視覚障害者生活支援センター」指導訓練課長の長岡雄一さん(57)だった。
長岡さんは言った。「当事者の家族ら近しい人ほど、手引きは厳しいですよ」。思ったのだ。視覚障害者と家族は、互いを知り尽くす。だからこそ、愛情を持ちながらも、厳しく対応できる。ならば萩尾を知り、萩尾が私を知れば、みえてくるものも変化するのではないか、と。
以降私は、注意深く萩尾を観察した。表情は口角の上下でうかがえた。さかんに鼻を動かすが、電車内で「美人か?」と尋ねた香水の主は男性だった。一方、私からも主張した。繁華街で速歩きを求めた萩尾を制し、人の流れが落ち着くまで待った。
手引きの途中、萩尾は「キンモクセイだな」と言った。甘くは香るが、木立は見当たらない。その時、私は気付いた。「見えない」萩尾が、においや音で別の世界を「みている」ことを。「視覚障害者」の萩尾に近づいた気がして、私はうれしかった。右腕の力みも抜けていった。
無論疑似体験だ。分かったような顔はすまい。だが体験の終盤、萩尾が私以外の人に手引きを求めた時、私は軽く嫉妬(しっと)した。だから今、苦笑しながら思う。相手と、そして障害について、もっと知りたい。できれば時間をかけて。
◇「疑似歩行」誤解を招く恐れ=野原隆(点字毎日部)
「1週間程度の疑似体験で何が分かる。むしろ誤った障害観を助長することにならないか」。体験取材に先立ち、視覚障害者たちに意見を求めたところ、懸念の声が多数だった。長年にわたって不自由さや社会の理不尽さと向き合ってきた心境を思う時、当然の声と受け止めた。
それでも体験取材に踏み切ったのは、晴眼者の側から少しでも視覚障害者の思いに近づき、寄り添うことができないのか、との思いからだ。それだけに、視覚障害者が抱いている思いや声は、しつこいほど萩尾に伝えた。
そもそも視覚障害者が単独歩行に踏み出すのは、一人の市民として自立した生活を目指すためだ。厳しい訓練を受け、一つ間違えると命にかかわるリスクを抱えながらも初の一歩を踏み出している「覚悟」も伝えた。
中途失明者が白杖歩行や生活訓練を受ける時と同じように、基本に忠実に立案し、けがや事故を招きかねないむちゃな行動をしかけた時は、先輩であるが厳しく注意した。
1週間の体験取材は、萩尾の心身に大きな負担を与え、アイマスクを外した時の視神経に与える危険性も考慮し、常に健康状態を観察するなど、緊張の連続だった。結果、私は途中で体調を崩し病院へ運び込まれた。
最近、アイマスク体験に取り組む学校や地域が増えている。しかし、その多くは単なる「疑似歩行」となってはいないだろうか。晴眼者がアイマスクをして歩くだけの体験は、不安や恐怖のみを印象づけ、視覚障害者への誤解や偏見を招く恐れがある。アイマスク体験は視覚障害者の一面を垣間見ることはできるが、もちろんそれがすべてではない。萩尾は今回、視覚以外の聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚を駆使し、その能力について再認識した。また、視覚障害者の思いを少しは共有し、寄り添うことができるようになったと思う。
09年は点字を考案し「点字の父」と称されるルイ・ブライユ(仏、1809~52)の生誕200年だった。10年はブライユの点字を応用して石川倉次(1859~1944)が日本点字を完成(1890)させて120年にあたる。この節目を、読者と一緒に障害やバリアーを考える「ともに歩く」機会としたい。
毎日新聞 2010年3月24日 0時16分(最終更新 3月24日 1時12分)
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https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_eye103/
◇もっと知りたい 相手、障害=平川哲也(大阪社会部)
「少し黙れ」。いら立った萩尾の声は、野原から手引きを引き継いだ朝、電車の中で聞いた。知ってはいたのだ。手引きの時、萩尾は左手で私の右腕に触れる。階段などの障害物を、白杖(はくじょう)で検知できるよう、正面に誘導する。説明は簡潔に「右」「左」がよい。だがマニュアル本で得た知識は、緊張でかき消される。手引きは冒頭からつまずいた。
私の右腕は力んでいた。車道から段差のある歩道に移る時、斜めに上ろうとした。白杖は段差をとらえず、萩尾はつんのめった。電車では「右上にある」と伝えたつり革が左上にあった。向き合って立って私から見て右は、萩尾の左だった。
ともに歩き、視覚障害を考える。だがその目的は、冒頭の衝突で戸惑いに変わった。みえてきたのは「視覚障害」でなく、萩尾というむき出しの人間だったからだ。途中で「置いて帰ってやる」とも思った。募る焦りを解いてくれたのは、2人で訪ねた「東京都視覚障害者生活支援センター」指導訓練課長の長岡雄一さん(57)だった。
長岡さんは言った。「当事者の家族ら近しい人ほど、手引きは厳しいですよ」。思ったのだ。視覚障害者と家族は、互いを知り尽くす。だからこそ、愛情を持ちながらも、厳しく対応できる。ならば萩尾を知り、萩尾が私を知れば、みえてくるものも変化するのではないか、と。
以降私は、注意深く萩尾を観察した。表情は口角の上下でうかがえた。さかんに鼻を動かすが、電車内で「美人か?」と尋ねた香水の主は男性だった。一方、私からも主張した。繁華街で速歩きを求めた萩尾を制し、人の流れが落ち着くまで待った。
手引きの途中、萩尾は「キンモクセイだな」と言った。甘くは香るが、木立は見当たらない。その時、私は気付いた。「見えない」萩尾が、においや音で別の世界を「みている」ことを。「視覚障害者」の萩尾に近づいた気がして、私はうれしかった。右腕の力みも抜けていった。
無論疑似体験だ。分かったような顔はすまい。だが体験の終盤、萩尾が私以外の人に手引きを求めた時、私は軽く嫉妬(しっと)した。だから今、苦笑しながら思う。相手と、そして障害について、もっと知りたい。できれば時間をかけて。
◇「疑似歩行」誤解を招く恐れ=野原隆(点字毎日部)
「1週間程度の疑似体験で何が分かる。むしろ誤った障害観を助長することにならないか」。体験取材に先立ち、視覚障害者たちに意見を求めたところ、懸念の声が多数だった。長年にわたって不自由さや社会の理不尽さと向き合ってきた心境を思う時、当然の声と受け止めた。
それでも体験取材に踏み切ったのは、晴眼者の側から少しでも視覚障害者の思いに近づき、寄り添うことができないのか、との思いからだ。それだけに、視覚障害者が抱いている思いや声は、しつこいほど萩尾に伝えた。
そもそも視覚障害者が単独歩行に踏み出すのは、一人の市民として自立した生活を目指すためだ。厳しい訓練を受け、一つ間違えると命にかかわるリスクを抱えながらも初の一歩を踏み出している「覚悟」も伝えた。
中途失明者が白杖歩行や生活訓練を受ける時と同じように、基本に忠実に立案し、けがや事故を招きかねないむちゃな行動をしかけた時は、先輩であるが厳しく注意した。
1週間の体験取材は、萩尾の心身に大きな負担を与え、アイマスクを外した時の視神経に与える危険性も考慮し、常に健康状態を観察するなど、緊張の連続だった。結果、私は途中で体調を崩し病院へ運び込まれた。
最近、アイマスク体験に取り組む学校や地域が増えている。しかし、その多くは単なる「疑似歩行」となってはいないだろうか。晴眼者がアイマスクをして歩くだけの体験は、不安や恐怖のみを印象づけ、視覚障害者への誤解や偏見を招く恐れがある。アイマスク体験は視覚障害者の一面を垣間見ることはできるが、もちろんそれがすべてではない。萩尾は今回、視覚以外の聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚を駆使し、その能力について再認識した。また、視覚障害者の思いを少しは共有し、寄り添うことができるようになったと思う。
09年は点字を考案し「点字の父」と称されるルイ・ブライユ(仏、1809~52)の生誕200年だった。10年はブライユの点字を応用して石川倉次(1859~1944)が日本点字を完成(1890)させて120年にあたる。この節目を、読者と一緒に障害やバリアーを考える「ともに歩く」機会としたい。
毎日新聞 2010年3月24日 0時16分(最終更新 3月24日 1時12分)
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