川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

カサブランカのように・・・吉田州花

2007年09月07日 | 川柳
              現代川柳『泥』二号

・・・続き。

 たよりない芒と飢餓を語るのは一夜だけにして、蓑虫と一緒に酸っぱさを曳きずって言って欲しい。

 この酸っぱさは不思議な酸っぱさである。いったい全体何を象徴しているのだろうか。
読者は梅干、レモン、夏蜜柑何を想像してこの句を読むのだろうか。
思い切りのよさを、とことん突き詰めて行って欲しいと思うテイ子作品であった。

            原発水漏れ朝の眩しい風景に
            有事だ有事だ蟻の巣をつつ
         だれも知らないこうもり傘の明るい死
          抱き続けた夢のその後に逢いに行く
            痩身一個今夜も月に濡れている

 素敵な編集者がいるなあと思いながら、池さとしさんとの出逢いは中々巡って来なかった。
 と、ある前夜祭で偶然となり同士の席になり、翌日ご一緒してのお酒は、何をあんなに笑ってばかりいたのだろうと思うほど友人と私は笑ってばかりいた。

 筆の立つ編集者は話術の達人でもあった。
そしてあれから何年の年月が経ったのだろうか。 さとしさんに静かな柔らかな時間が流れていることを感じる。

 原発も有事法案も、手が届きそうでいて、真実の芯までは伝わって来ない。
川柳でそのことを世に問えるのはやはり心ある殿方であろうと私は思っている。

 原発の水漏れも有事法案も、深く静かに世を憂えるさとしさんの姿勢に心を重ねた作品群であった。

            沈黙の箱の深さへ放つ魚たち
            喫水線 別れ上手な魚たち
           ハーブ群生 呪縛の解けぬ身半分
            犬の目の高さを越えて鬼灯は
           昂ぶりはあったか黄楊で髪を梳く
          神無月ならば鏡を伏せ あ そ ぶ

 柳誌「さっぽろ」に何年かの間、私は籍を置いていた。
多くの柳人がいる中で容子さんの句に注目し、本が届くと名前を捜して読んでいた時期があった。

 やがて「さっぽろ」で賞を受けられ掲載されたエキゾチックな容子さんの写真が、今も目に残っている。

 プロローグの魚は決まった型、決まった想いではないようだ。この魚はときに女、ときにこころ、ときに涙に変化する。

 読者はその時の自分の心の状態で、この句の中に自分の魚を泳がせる。
心を重ねて泳がせるには心持よい温度と流れの作品達である。
読み進むうちに句は夜の気配へ私を誘ってゆく。

 自分の心にゆったり問いかけながら一日は終わる。絹の大判のスカーフにふわりと包まれているような温かさの、容子作品であった。
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カサブランカのように・・・吉田州花

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

      何の予告もなく、現代川柳「泥」の創刊号は届いた。

 心持良い驚きでゆっくり頁を開いた。
容子 テイ子 さとし各氏に三様の思慕の想いを抱いてきた年月があっただけに「泥」の創刊に送る拍手は熱く強い。

      三人ともに個人誌を持っても充分な力の持ち主である。

どんなきっかけで、三人での柳誌の発行が決まったかということも興味がわく。
 参加したいと思う魅力的な柳誌を捜し求めるより、自分達で望む形の柳誌を作ろうではないかと、そんな思いでこの柳誌は出来上がったに違いないと、誌面から熱い熱気を受け止めている。

 発行は年二回、三年間六号までを一応のハードルとするという「泥」を、かっこ良過ぎるなあと、眩しくながめている。

 泥ってなんだろう、と思った。
苗を植え込む水を含ませた土、移植する花や木を根付かせる為の水をたっぷり与えた土
川柳を咲かせるための泥なのだと思った。

 川柳の花の色 形 姿 香りを三年間楽しませて頂こうと思う。
       そして二号の自由に走り出した各三十句に出会う。

青葉テイ子
            怠慢という名の背骨猫じゃらし
            酸っぱさ曳きずっている 蓑虫
            凭れ合うすすきと飢餓を語ろうか
            静脈が浮き出てきたぞ 別離以後
            目が落ちてゆくよいわれなき遺伝子

 多忙な日常の中でテイ子さんは、ともすれば休みたくなる自分を叱咤激励しているのかも知れない。
 多くの柳人達と、何処で最初に出逢ったか記憶のない中でテイ子さんとの初対面は劇的でさえあった。
 第一印象で感じた情熱的な人は今も変わらず、聡明で明るく、お料理上手、やりくり上手もてなし上手は後で知ることになる。
 てきぱきと物事を処理し、くるくると陽気にジルバを踊る彼女は素敵な絵になる人である。

      そして句は、そんな彼女とかなりの距離を私に感じさせる。

 ジルバを踊る彼女のようにもっと華麗に、絵を見る研ぎ澄まされた感性のように、もっと鋭く歯切れよく書き込んで欲しい。

 「泥」という恵まれた舞台の上で、今まで蓄積してきた技術と情熱と思いを余すところなく吐き出して欲しいと思う。
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異見・・・西村忠兵衛

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

・・・続き。

             犬の目の高さを越えて鬼灯とは

 鬼灯がひたすら伸びる。高いも低いも犬の目が勝手に決めているだけだ。
美しいと思われようとして咲いている花はひとつもない、と言った人がいる。素朴実在の強さ。

             秋は其処 白紙に戻す足の裏

 足の裏― 足跡。春が過ぎ夏も終わりに近づいて、いいにつけ悪いにつけ、それなりに歩いてきた。人生ってこのように、気をとりなおして、いつも小さな覚悟の連続だ。
健気。

             魚臭の手 性善説を曖昧に

 人は、人以外を犠牲にして成り立っている。魚を殺して食った手で、明日は人を助けるかもしれないし、そうしないかもしれない。なんとか辻褄を合わせてやっていくものだ。いいじゃないか。

             さすろうて候ページ繰り続け
             ナーバスな言葉に揺れている芒
             銀の雨 寒い冷たい 極刑か

 さすらう― ページを操る。ナーバス―芒。寒い冷たい― 極刑。どれも予定調和である。屈折がない。つまり、あたりまえのことを気の利いたことばで言っただけに終わっている。このパターンでは抽象画になりがちだ。もっと具象化してほしい。

             「美しき偽善」 青葉テイ子

           目が落ちてゆくよいわれなき遺伝子

 よくない結果が他者によってもたらされたものならともかく、持ちまえの遺伝子による場合は、そっくり自分で引き受けるしかない。そして、遺伝子を自分で選ぶことができなかった。ああ。

           マグマ噴くああ美しきかな偽善

 偽善の外見は美しい。しかし作者はそんなことを言っているのではない。人生は演技だ、と割り切って偽善を肯定している。そこに屈折がある。

           耳のうしろからドミノ倒しの炸裂音

 ほんとうは忍び寄る音なのだ。しかし、たとえば死のように、だれもドミノ倒しから逃れられない。それが音のない炸裂音なのだ。

           酸っぱさを曳きずっている 蓑虫

 「すっぱさを曳きずる」がおもしろい。明確な説明はできないが、人生そのものが不明確なのだ。しかしすっぱいと感じることがある。

           なんの謀議小耳に刺さって離れない
           棘ちくり血止めの策はないものか

 器用に述べただけで、迫ってくる内容がない。頭で書かずに眼で書いてほしい。
そうすればもっと具象画になる筈だ。批評眼で凝視することをいつも考えて欲しい。
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異見・・・西秋忠兵衛

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

 お三人ともベテランで、ぼくより先輩にあたるのではないだろうか。そのぼくが評を書くのは、おこがましくて恐れ入る。しかし、傍目八目ということもあるから、参考になるかもしれない。

 異見は善し悪しというより好き嫌いの問題かもしれないことを前提として。

 「陽を抱く」池さとし
            八・十五静脈瘤と向かい合う

 風化しつつある敗戦忌を「静脈瘤」と言い得て妙である。風化を戒める姿勢が「向かい合う」に表現されている。有事法をはじめ、そういう状況である。
   
            有事だ有事だ蟻の巣をつつく

 まっとうに生きている蟻の巣をつつく。パニックになった蟻たちは散る。なかには国道を渡る途中で轢き殺されたものもいる。健忘症に棒を持たせると怖い。だが蟻には、また営巣をする健気がある。

             団欒の木を根こそぎ奪った 棺
 
 木立いっぽんが伐られて棺になった。木立ちの団欒は崩壊した。数本のなかの一本という算数では処理できない本質がある。家族とはそういうものだ。

             くもの巣に唯物論がぶらさがる
 
 この唯物論は、厳密な意味ではなかろう。くも自身にしろ、別のものにしろ意図的でなくただぶらさがった。実在とはそのように素朴なものだ。

             だれも知らないこうもり傘の明るい死

 個人の生死など全体から見れば日常茶飯の一つにすぎない。だから、こうもり傘というありふれたものであり、明るい死なのだ。しかし、本人にとって死はすべてである。
その書いてない表現が迫ってくる。

             携帯の波に溺れているにんげん
             しあわせの尾は掴んだかに見えた
             朝市が光る歯切れのいい啖呵

 これらの作品は、あたりまえのことをあたりまえに言っただけで、に終わっている。あたりまえのことが、ことばによってあたりまえでなくなる、それが作品だと思う。

             戦争展見てきた影は折れている(作二郎)
             ケロイドの下をながれる五十年(忠兵衛)

 「歪な壺」 佐藤容子
             沈黙の箱の深さへ放つ魚

 潜っても潜っても手探りばかり。人生とはそういうものだ。放つ人も、放たれた魚も作者自身だろう。そして、何とかなるもんだ、という強かさを感じる。

             半身を濡らし二章の一行目

二章の一行目、つまり過程の途中、生きている最中なのだ。半身はもうずぶ濡れだが元気。





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風のバラード・・・青葉テイ子

2007年09月05日 | 川柳
              現代川柳『泥』二号
・・・・・続き
       個性とは、マンネリズムに対する執念でもあろうか。

 私が揺曳しているポエム川柳、この実体を極めることができたら、何も恐れるものはない。言葉から誘発された狼煙が、読み手にインパクトを与えることができたら、一句の持つ意義も深まることだろう。

 七月八日『ポエムコンサート交響樹』が開催された。

 苫小牧文化振興助成事業の一環である。
 第一部から第四部構成で、詩人、原子修氏により詩朗読と音楽、チェロ、フルート、ピアノ、夏の夜のひととき美しいハーモニーを奏でた。

 会場となった老舗、『第一洋食』の重厚な壁と、インテリアの木製の椅子、机へ語りかけた音色と共に、詩人が放つ透明な言葉たちのなんと輝いていたことか。

1 音楽バッハ、無伴奏チェロ組曲等二番プレリュード
2 語りと朗読、おなかのすき過ぎた木

 詩人の声は力強く、そして儚く悲しく、ひとり歩き始めたいとし子を観客に放ち満席の聴衆を魅了した。

 研ぎ澄まされた韻律に浄化され、詩空間の中をたゆとうていた。一種の華やぎと、観客と一体化した緊張感の中で。

    殺すなかれ・・・とうつむいた父のひとしずくが
    木の内部にたちつくす湖のおもてから
    そっととり逃がす 幾重もの光の波紋

    盗むなかれ・・・と口つぐんだ母の紡ぎ車が
    木の内べりをまわす音盤から
    かすかに手繰り巻く 夜明けのアリア
   
    だますなかれ・・・と目をつむった祖父の手が
    木の中にうがたれた時間の峡谷に
    黙ってころがしてやる木霊の輪      詩集『交響樹』より  年輪

『泥樹』
 なにびとにも侵されることのない独創の冠を緑なす葉むらにほこらしくかかげるには、地の底でのたうつ泥の乳房からしたたる神の恩寵こそが・・・。

 風がひそと動いた。私は「泥樹」からしたたる芳醇な樹液の中でむせび、魂の雄叫びを聴いたような気がして振り返った。さわさわとなにかを鼓舞するような風。

 生き生きて、ありのままを表出するのが川柳なら、狂気と呼ばれようが突っ走るしかない。生きるとは恥の元凶なのだ。「泥」創刊号から曳きずっている得体の知れない怖れと身震いは何。プルタブに坐って考える再びの船出。生きることすべてに張りめぐらせたアンテナの手応えを待ちつつ虚しさのあわいを彷徨する人間の森。

 その挙句のひとつひとつをじっくり透視しながら、好奇心全開にして何かを待つ。錆ついた感性から放たれたくて・・・。


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風のバラード・・・青葉テイ子

2007年09月04日 | 川柳
            現代川柳『泥』二号

        光の尾をひいて風が渡っていった瞬間。

 そよぐ葉くずれの睦言が聴きたくて、私は全身を耳にする。
やがて、耳から目から細胞のふしぶしをノックする風のありよう・・・。

その時、私の中で何かが弾ける気配がする。その爆発が欲しくて、飽きもせず白い燎原に佇つ。内から溢れるものの淵でひたすら震え、私は誰と風に問いかけてみる。
 熟れてゆく狂気と、ゆるやかな風紋。

 川柳・・・この小さな詩型に捉われるようになって、ゆるやかに歳月は流れる。何もかも忘れて、何もかも吐露し続ける背景、わが内奥のどうしようもなく俗世に塗れた垢は払う術もなく、翻弄され、木の葉の如く彷徨うた来し方を思えば扼腕の限りであった。

 この目に見えぬ正体を探るべくの川柳行脚は、まだまだ続くことだろう。川柳、この一筋縄ではいかぬ文芸の中で、果たして私の何かが燃焼し切れるのだろうか、

             非凡たれ、先人は言った。

 非凡の目など、そうざらにあるものではない。平凡の中でこそ見過ごしていた。葛藤、憤怒、不条理、もがき、あがき・・・・そのもろもろを、人の三倍ものエネルギーで凝視するところから、人に見えなかったもの、人が感じなかった部分を捉える非凡な目が発見できるのではないか。土と戯れながら、無心に泳ぎながら、消去法で雑念をとりはらう・・・。
そのうわ澄みこそ私の希求するものでその部分の中で、捉えた現象を何の衒いもなくシャイに詠むことができたら、生き恥の表白もまた愉しからずや。

 芥子の花が毎年庭にわっと咲く。
 昨日まで、ピンポン玉のような繊毛に覆われた蕾が、にょっきりそそり立っていたと思いきや。翌朝、臆面もなく真紅の花びらを大仰に開く。直径20糎もあろうか。

あたかもその美しさを誇示するかのように・・・。
 心憎いほどの美しい花が、血を吸うたがかのように見えるのは錯覚か。花あかりに照らされた庭は不気味に私の気をそそる。茎に針を持ち、阿片という甘美な毒を持つ相応しい艶やかさに、魂まで奪われそうで訳も無く脅える。風もないのに、何かにさえ散ると思わせるこの思わせぶりこそ魔性ではないか。頼りなげで妖しげな花は、己との果てない葛藤を思わせる。羨望と嘲笑の中で、何ものにも毒されることのない岐立した花のこころ。

 現代川柳が新しい生命を持ち得るには、あらゆる可能性にかけるしかない。
生きるとは死とは、この普遍のテーゼを執拗に追い続けながら・・・。


                          続く・・・・
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美しき偽善・・・青葉テイ子

2007年09月03日 | 川柳
              現代川柳『泥』二号

            日が落ちてゆくよいわれなき遺伝子

沈黙を守る輪切りの臓器たち
共鳴したらし猫語とふやけた思惟
なんの謀議小耳に刺さって離れない
                      猫の背中から匂うアンニュイな午後
                      マグマ噴くああ美しき偽善
         贖罪の花いちめんに黄砂舞う
         北酒場だれの影だろ落ちている
         架橋の真ん中で編む 人間魚雷

                     パレットのナイフで切り裂いたわが舌下
                     耳のうしろからドミノ倒しの炸裂音
                     ポケットに首吊る縄と 春宵
ほとばしるわが胎内の咆哮よ
酸っぱさを曳きずっている 蓑虫
凭れあうすすきと飢餓を語ろうか
              自我食いつぶしてゆく 愉快犯
              花よ散れこの世の無常ひと呑みに
              尾を振らぬ犬にもさくら真っ盛り

射抜くものあり夏の雷鳴のように
多弁な繭あがりさがりは赦されよ
棘ちくり血止めの策はないものか
                      おごれる蛍どこに消えたか春かすみ
                      静脈が浮き出てきたぞ別離以後
                      風は無言 傷つき果てた鳩も抱く

        流れ藻の無残と風は契り合う
                      指きりよ見事な欺りと多情仏心
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省略の美しさ・・・佐藤容子

2007年09月02日 | 川柳
現代川柳『泥』二号
・・・続き

 幽玄美や余情美の世界を論ずる程の知識を持ち合わせてはいないが、これらに共通していることは単に大自然の生命(いのち)の賛歌や、はかなさばかりを表白したものではなく、根底には常に自我を客観視させたり人間を愛し、いのちを見つめるという真摯な姿勢がありそれが日本の文化(芸術)作品をハイレベルにして来たと言っても過言ではないように思っている。

 あの雄大な最北の景色は無言のうちに自然の厳しさやはかなさを物語っていた。一本の樹も存在していない平野を現実に見たときの衝撃や、その平野で潮風に揺れながら背を低く地を這うようにしか伸びられずに咲いている草花の健気さ、また想像を絶する風力を待ち凛と立つ執念を見たと同時に、それでもなお其処で咲き続ける草花の誇りや歓喜の声を聞いたような錯覚と、飽くなき人間の限りない知恵を見たような気がした。

 雄大な自然にそれしか存在していない現実・・・。
自然と人造物が見事にマッチした不思議な世界が語りかけていた緒々の台詞・・・。
 そこには装飾を必要とはしない「簡素」が創り出す「美」を実感せずにはいられなかった。

「ひらかな」が日本が創り出した省略の究極の美であるということや、非常に合理的で何
ひとつの無駄もないと言われている茶道は「簡素美」そのものであると言われている。

 また秀逸な文学作品は美辞麗句によって、飾り立てたものに存在するものではないというように、美しさの価値には、外的に華美、華麗なものには一過性の感動しか湧かないと言うことからも、省略の必要性を痛感せざるをえない。そして簡略、簡素がいかに人の心を打つものであるかは、あの風景に感動したという事からも理解できる。

         最果てを人間臭くする風車  千野 秀哉

 この句は、その北海道川柳大会で知事杯を受賞した作品である。大会前日、さいはての地を散策しながら句作したと聞いている。あの巨大な金属の風車のひとつひとつに作者は
「人間」の姿を見て、「人間」の匂いを感じたのだろうか。

      悠然と立つ日本最北端の風車は人間と確かに同化していた。

 人間を拒み続けてきたであろう厳しい自然は人間と一体化し、金属の林を育て新しい自然を造りそこに在った。

 「人間臭く」としか言ってはいない言葉の底辺を流れている作者の驚き、悲しみ、怒り、自然愛に触れられたと同時にこの作品にもまた「簡素の美」を見たような感慨を味わっている。
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省略の美しさ・・・佐藤容子

2007年09月01日 | 川柳
     現代川柳『泥』二号
 
 日本海に沿って北へ北へと走る車窓の風景を海霧は徐々に乳白色で塗りつぶし、やがて雄大であろう大自然の全てを幻想的な灰色の闇へ隠してしまった。景色の消えた道をどれ位走ったのだろう。

 感情を持たない曇った空と重そうな鉛色の海を背景に突然目前に現れた巨大風車の林は今までの退屈な視界を一挙に驚愕の世界へと引き寄せる力で立っていた。

 さいはての地の風を全身で受け止めているその風車は眩しいほど美しかった。モノトーンの自然のなかに林立する、装飾を全く持たない金属の林に何故「美」を感じたのだろう。
     稚内で開催される北海道川柳大会へ向かう途中での体験である。

 「美」について考えるとき「幽玄の美」や「余情の美」という言葉が私の脳裏を走る.

 これは日本人の特徴とも言える感覚で、リアルに目で見たり手に触れたりして確認の出きる、というように実際に存在するものの「美」であることより、寧ろその陰に潜む形を持たない曖昧とも言える「何か」に神秘性や幻想性という奥深くて、はかり知ることのできないものやことに感じる美の意識であったり、また兼好の「もののあわれ」に記されているような無常観的な情趣に存在する「美」のことであることは言うまでもない。

 たとえば西洋人には雑音としてしか聞くことのできないと言われている虫の声や、風に揺れる木の葉の音、あるいは川のせせらぎの音などが私達日本人にとっては単にその声や音としてきこえてくるだけではなくて、やすらぎの音となって五感に心地よく響き、心身を癒してくれる力さえを内包している特別なものなのである。

 こうした曖昧模糊的で西洋人には理解しがたい美意識を何故、私たち日本人は古代から感知し延々と継いできたのだろう。

 地図で日本の位置を初めて見つけた時、その狭小さは子供心にショックであり、また四方を海で囲まれた小さな島国を取り囲む自然風土や気候は独特のものであり、春夏秋冬という規則正しい四季の移ろいや、四季の儚さがこの世の無常観となって必然的に自然を愛おしみ、育み、その価値観や文化を創造させる起因となってきたと言われている。
                              
                      続く・・・・・・。
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