後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。
昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。
戦争も、末期になると、信州のような山奥にも、敵機が飛来して来るようになった。
学校や、公共施設のそばには、防空壕が掘られていたが、やがて、各家庭にも防空壕を設置するようとの指示が出された。
ほとんどの家には、防空壕が掘れる様な場所は無かった。
各戸は、玄関先や屋敷内の地下に竪穴を掘って間に合わせていた。
直撃を受けたらどうしようもないが、横からの爆風くらいは、何とかしのげそうであった。
しかし、焼夷弾などで、延焼をうけたら、ひとたまりもなさそうであった。
爆風を避けたら、飛び出して、どこか、安全な方向へ避難するためのものであったと思う。
兵達が疎開してきた学校などの施設には、資材さえあれば、兵達が、横穴式の、立派な防空壕を作っていた。
もちろん、敵機が飛来して、攻撃してきたら、兵達が避難する場所で、生徒などが、逃げ込める場所ではなかった。
防空訓練が何度かあったが、低学年は、自宅へ帰って待機すること、高学年は、校舎から離れた場所に避難して、敵機が去った後、防火作業を手伝うと言うもので有った。
松本には、都会から疎開して来た生徒が大勢おり、クラスにも、1,2名は必ずいた。
戦争末期には、そろそろ、松本も危ないと言って、さらに、山の中の山村へ、疎開していくものもいた。
実際、松本の住民さえ、疎開を真剣に考え始めていたのであった。
やがて、夜になると、米機が編隊で飛来する様になった。
暗くなると、各戸は、電球の周りに、黒布をかぶせて、灯りが外に漏れないように気を遣わされた。
敵機がこの地方へ向かっているとの情報がつたわると、サイレンが鳴って、一斉に、消灯が指示された
敵機が通過するか、他にそれるかがはっきりするまで、人々は、暗黒の中で、息をひそめていた。
サイレンが止むと、灯火管制が解除となり、黒布をかぶせた灯りが灯された。
ある晩のことである。
また、けたたましいサイレンの音が聞こえ始めた。
あちこちから聞こえてくるサイレンの音から、なんとなく、只事ではなさそうな気配が感じられた。
父と母は、近所の役割があてはめられていたのだろうか、夕がたから家にはいなかった。
暗闇の中で、ひっそりとしていたmcnjのところへ、突然、母が帰って来た。
母は、何か、忘れ物をしたらしく、真っ暗な中で、探し物をしていた。
しばらく、もぞもぞしていたが、どうしても、忘れた物が、見つから無かったのであろうか、決心した様に、
電灯のスイッチを入れた。
そして、目的の物を見つけたのか、電気を消して去って行った。
それから、数分後であった。
突然、大きな炸裂音がして、古い木造の家が、揺れ動いた。
後で聞いたのであるが、市内から、4kmほど離れた山の中に着弾したとのことで有った。
松本の人間たちは、アメリカは、誰もいない山の中に爆弾を落として、馬鹿なことをするものだ。
これでは、日本に勝てるはずが無い、と、喜んでいた。
この爆弾が、松本に落とされた、唯一の爆弾で有った。
この後、数日して、終戦になった。
あの夜、母が点灯した灯りが、着弾のきっかけだったかどうかは、わからない。