もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。
昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。
昭和20年に入ると、戦況はますます厳しいものになって行った。
国民の戦う意欲はまだ有ったものの、肝心の、物資がなくなっていた。
大本営は、あらゆるもので対抗することを考えたのだろう、国民に竹槍で武装するよう呼びかけた。
国民に、竹を切って来させて、竹先をとがらせて訓練を始めた。
訓練されたのは、主に、女性である。
母達が、モンペ袴姿で、近所の空き地で、黄色い声を張り上げながら竹槍をふるっている姿をよく見かけた。
大本営は、こんな戦況下に置かれても、本土決戦と1億総玉砕を唱えていた。
小学高学年、高等小学校生も例外ではなかった。
男子は剣道、女子は薙刀が、体育の授業であった。
もし、本土決戦となったら、沖縄のひめゆり部隊の様に、駆り出されていたことであろう。
一方、大本営は、何とかして、アメリカ本土へ、打撃を与えよう考えていた。
当時の学者達が、知恵を絞ったのであろう。
上空を流れる偏西風を利用して、爆弾を付けた風船をアメリカまで飛ばそうとする作戦であった。
しかし、風船をつくるゴムが無かった。
仕方なしに、紙で風船を作ったのであった。
この紙風船が、アメリカ本土まで届いたかどうかは、いまだ知らない。
ずっとのちになって、週刊誌で読んだのだが、戦争末期に、アメリカ東海岸の山中で、不思議な山火事が有ったとかで、これが、風船爆弾の戦果ではなかったと、書かれていた。
↓の戦後70年の記憶 ⑤神風でも書いたが、つくづく、大本営は、カミ頼みが好きだったものである。
高校生になってから物理の授業で聞いた話で有るが、風船爆弾に味をしめた大本営は、学者たちに命じて、戦争に勝つための知恵を出させたとのことであった。
その先生の発明では無いが、有る学者が、小舟で、大砲を撃てる技術を発明して、大本営から表彰されたそうである。
その技術とは、こう言うものであったそうだ。
小舟から大砲を撃てば、その反動で船はひっくり返ってしまう。
それを防ぐためには、同時に、反対側へも、大砲をうてばいい、と、言うものであった。
物理学に詳しくない軍部の人間達は、大喜びしたのであろう。
しかし、物理の先生は、笑って言ったものである。
水平に撃つなら別だが、上空に撃つとしたら、正反対の海の中にも撃たなければならない。
しかし、軍部は、こう言ったそうだ。
海中ではなく、正反対の空に向かって撃つのだと。
しかし、これも、物理学を知らない者の言うことである。
力と言う物は、ベクトルである。
ベクトルを合わせないと、力はゼロにはならない。
この方法では、海中真下に向かうベクトルが残ってしまい、船は、海中に沈むことになる。
この程度の物理の原則は、高校生でさえ、理解できることで有った。