名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

銭を呼ぶ幸運の札

2025-03-15 | 金融


帯封は捨ててはいけません。



金融機関で高額な金を引き出すと、
100万単位で束ねられた紙幣が
渡されます。

帯封(おびふう)とは??

札束を束ねている帯状の紙のことです。



この帯封には
不思議な力が宿っています。

これは、
私が感覚的(ウサギセンサー)
で感じることであり、
科学的根拠はありません。

あくまでも非科学的なお話ですが・・・

帯封は金運を引き寄せます。

帯封はある意味、
金を引き寄せる力の宿る
「御札」であり、「お守り」のような
ものです。

もし、支払などで高額な紙幣を
支払うような場面が有ったら、
必ず、
帯封を外してから支払いをしてください。

外した帯封は、
適当な箱か袋に入れて大切に保管してください。

ただそれだけで金運がアップします。



私は長年に渡り帯封を収集し続けています。

私の保有する帯封は、
特に大きな価値があります。
(非科学的な不思議な力がある)

私の帯封を譲ってくださいと言われたとしたら、

 銭を呼ぶ幸運の札 

という意味で、値段は付けることはできません。

それでも、
もし、販売するとしたら
1枚 1万円で売りたいところです。

されど・・・

科学的根拠はないので、
そんなアコギな事をしたらお縄になります。

どうしても必要とされる方で、
縁のある御方には、
無料で差し上げています。

過去に於いて、
ある御方に私の保有する
帯封を差し上げたことがあります。

その結果は????

ウソみたいな話となってしまうので・・
その結果は秘密です。

  

私の場合、帯封の保管は
40年前から行っています。

その結果は???

現在の私は、少なくても、
貧乏ではありません。



・・ウサギ講心得・・
お金は世の為、自分の為
一日 一偽善


・・二宮金次郎先生は言った・・・

  道徳なき経済は犯罪であり
 経済なき道徳は寝言である

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信じる者は救われない

2025-03-14 | 宗教


私が今までの経験のなかで痛感したこと・・・



社会的信用は
信仰深さ、とは無関係

人望や人徳と信仰心とも無関係・・

幸運・不運とも無関係。



仏教には膨大な数の仏典が存在してます。
一説には7千巻の経典があると言われています。

親鸞聖人が
膨大な数の経典のなかで、
特に重要視した仏典

大無量寿経
(だいむりょうじゅきょう)

という経典があります。

この経典には
『疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)』
と・・云う言葉が記されています。

「疑城胎宮」とは、

「城のように殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界」

という意味だそうです。



仏を信じる・・

神を信じる・・

立派な心掛けであると思います。

しかしながら、「立派な心掛け」自体には
大きな意味は感じません。

「心掛け」の前提こそが
重要であると思うからです。

「心掛けの前提」とは???

「信じる」という行為の根本的な動機

即ち・・・

「信じる」と自分に言い聞かせている背後には、
「疑う心」がある。

「砂糖は甘い」と・・信じる努力をするひとはいない。

「自分の子供はカワイイ」と信じる努力をする人はいない。

なぜなら、「疑っていないら」信じる必要などない。



仏を信じる・・

神を信じる・・

その正体とは・・・・・

神仏を信じているのではなく

「自分の理性を信じる努力をしている」

と言いう事になる。

「自分の理性」の前提には
「自分の都合」があるのみ。

即ち・・・

信仰深い人、神仏を信じている!!
と力説するようになってしまうと

これこそが「大無量寿経」の説く、

『 疑城胎宮(ぎじょうたいぐう) 』

(殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界)

から抜け出すことが困難であると言わざるを得ない。



いままで、疑城胎宮に
閉じ込めらたお方を何人か見てきました。

立派な心掛け・・・立派な理論・・・

でも・・・何かが???オカシイ・・・



「善人より悪人の方が救われるチャンスが多い」

親鸞聖人はこのような趣旨の言葉を多く発しています。



歳を重ねる毎に、
親鸞聖人の真意が理解できる
ようになったような気がします。

親鸞聖人こそ、
宗教史上最大の正直者であるとい思っています。

だからと言って、親鸞聖人の教義が全であり、
万能であるとは思ってはいません。



私は、数年前、
ある出来事を通して、
あることを痛感しました。

それを機に、
神仏を信じる事を辞めました。

 信じることを辞めて、
神仏に任せる決意をしました 

 悪あがきしませんお任せします 0

これが私の念仏です。








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目に見えないもの

2025-03-09 | 宗教


一番の不幸とは、
自分を見失う事である。

絶好調なときも、
あるかもしれないが、
自分を見失うと、
暗闇に引きずり込まれる。

そういう不幸な人はたくさんいる。

宗教の真の目的とは、
 目には見えないモノを見る  
事にある。

 「目に見えないモノを見る」
 とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像
として見るという意味ではない。

もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、
自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、
「 真実 」ではない。

神仏の声など聴く事はできない。
もし聞こえたら、それは幻聴・・・

私の場合、そのようなことが起きたら、
まず第一に、自分の感覚を疑い、
自分の耳を疑い、
そのあと、意識のスイッチをオフにします。

 夢の中に偉人が現れて、
何かを語った 

このようなお話も、
99%は潜在意識が為せる、脳内現象。

願望を記憶に変換した潜在意識のイタズラである。

若しくは、苦し紛れの創作か
記憶の捏造である。



先に述べた、「 見る 」とは、

「 観る 」 = 「 静観する 」
という意味である。

「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。

「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、 心で観る 

たとえ、目の前が、
辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・

その背後にある、「 見えないもの 」を
見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、
権利を放棄した事になる。

目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、
最高にして、最大の幸福を観る。

他者との比較ではない、
「 自分が全て 」なのだ。

「目に見えるもの」 
これのみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。

生まれつき虚弱なひともいれば、
強靭な人もいる。

生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。

五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。

誰かが言うでしょう・・・



おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・

なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか

その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・

「 目に見えないもの 」
が存在するのです。



誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!
詭弁をいうな!!!

ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・



しかしながら、

理論的な判断だけではどうにもならないのが、

‘ この世 ‘ なのです・・・

そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、
人生が「 徒労 」となってしまう。

目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは  

 自分の内に宿る神 

 自分の生命の根源である‘神‘  

 自分の内に宿る生命の偉大さ 

 自分を見守る、親の心・先祖の想い 


 全ての人間は、神の分霊・仏の化身 


これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。

  生きてるだけで丸儲け  
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曽野綾子さん、お亡くなりになりました。

2025-03-06 | 思う事
作家の曽野綾子さんがお亡くなりになりました。
老衰で死去、93歳とこのとです。

謹んでお悔やみ申し上げます。



私は曽野綾子さんを尊敬しています。
私が曽野綾子さんから受けた影響は甚大です。

高校生のとき曾野綾子さんの本を始めた読みました。

それ以来、曽野綾子さんの書いたエッセイや
論評などの著書は、新刊が出るたびに、
ほぼ、100%読んで来ました。

曽野さんは熱心なキリスト教徒でした。

私はキリスト教徒ではありませんが、
曽野綾子さの本から、多くの事を学びました。

  

宗教に対して、私が感じていること・・・
(特に宗教団体の関係者)

「宗教は方便とい大義名分に於いてウソが許される」

「その副作用として、ウソと真実の境界線が曖昧となり、
誤魔化すことが習慣となっている」



ここで云う、誤魔化しとは、
『理論のすり替え、』
『美談で逃げる』
『忖度を誘導する』
『異論を受け付けない雰囲気を作り出す』
という意味であり、一般論でいう
ゴマカシ(不正)とは意味が違います。



良くも悪くも、これが実態であり宗教の
功罪であると思っています。

  

曽野綾子さんは、
誠実で、正直で、ウソをつかないお方でした。

曽野綾子さんは熱心なキリスト教徒です。

私の勝手な主観ではありますが・・
曾野綾子さんと
親鸞聖人には大きな共通点があるように思います。

親鸞聖人は
「宗教史上 最大の正直者」
と思っています。



この他に、
曽野綾子さんと親鸞聖人の共通点を挙げるなら、

「徹底した合理主義」

「死後の世界に対しては、
肯定も否定もしない立場を貫いた」

「御利益を説かない」



私のイメージする親鸞聖人の気質と
私のイメージする曾野綾子さんの気質は、

その本質的な部分に於いて、
瓜二つのように感じられる。
(これは、あくまでも私の主観です)

立派な人間になろうとは思わない。
良い人になろうとも思わない。

だだ・・
それ以前の問題として、
曽野綾子さんのような、
正直で誠実な人間を目指したい。
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死にたい人のお話。

2025-03-04 | その他
天才バカボン に出てくるお話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

死にたいと言っている人がいた。

バカボンのパパがなんとかして死なせてあげようと思った。
にもかかわらず、
次々と関係ない人が死んでいく。

死にたい人を、バカボンのパパが、土管に誘い込む。
そして、その上に岩を置いて出られないようにした。

その3日後、死にたい人は、土管から自力で這い出した。

死にたい人は腹が減ってレストランに駆け込む。

その後、死にたい人は、食べ過ぎて死んでしまった。

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